TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

私の「医人」たちの肖像―(118 ) 野末悦子さんとインタビュー「ホルモン補充療法(HRT)とは何か」 ~1993年4月24日(土)

(118)野末悦子さんとインタビュー「ホルモン補充療法(HRT)とは何か」~1993年4月24日(土)

 「ホルモン・セラピー」のテーマで、午後18~21時、野末悦子先生に東京駅・東京ステーションホテルの会議室において、インタビューをした。野末悦子先生は、当時、川崎協同病院副院長であった。聞き手(インタビュアー)には、遠藤芳広先生(慶応大学医学部卒、内科クリニック開業)にお願いした。
■ホルモン補充療法って何■
●1993年4月24日(土):

 ホルモン補充療法(HRT:Hormone Replacement Therapy)が、女性の更年期障害の治療に対して、注目され始めていた。女性の更年期障害は、不定愁訴として、当時は捉えられ、明確な治療法がなかった。これに対して、女性ホルモン(estrogen)を補充してあげることにより、良好な結果が得られることが、主に欧米で報告され、日本でも注目されてきていた。
 そこで、HRTの日本の先駆者の一人である野末悦子さんに、HRTの現状についてインタビューした。野末さんは、自らの乳がん体験からHRTに関心をもたれたようだ。このインタビュー記事は、医学界新聞・第2056号(1993年)に掲載した。
 この当時から30年が経過した現在、ホルモン補充療法はどう変化あるいは進んでいるのだろうか。
 野末さんは、1932年東京生まれだから現在は88歳のようだ。川崎協同病院を65歳で定年退職し、その後は川崎市の久地診療所の初代所長となる。1997年に川崎市でコスモス女性クリニックを開業。2013年に同クリニックを閉じて、川崎医療生協・介護老人保健施設「樹の丘」の施設長に就任した。久地診療所の婦人科医師を兼ねる。2017年4月からは、久地診療所を専任されている。
 興味深い本を出している。『女60代からは、病は気から、老いも気から』。
 この本を探して読んでみたいと思いながらインターネット検索した。「川崎医療生協の組合員、患者さんへ向けて」という野末さんの診療終了のメッセージを見つけた。新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、2020年6月14日を以て、高齢を理由で診療を終了したとのことだ。
(2020.10.15)
(私の「医人」たちの肖像―〔118〕野末悦子さんとインタビュー「ホルモン補充療法(HRT)とは何か」~1993年4月24日)

飽食の時代と食えない子どもたちのことーノーベル平和賞「食料計画」受賞に寄せて

 少し前に日本は「飽食の時代」と言われていた。外食産業が花盛りであった。例えば夜の街と言われる新宿歌舞伎町の飲食店街の裏口には、手の付けられていないお惣菜や弁当が捨ててある。それを目当てにホームレスあるいはストリートで生活しているひとがテリトリーにして食材を手に入れていると聞いた。ところが最近では、「三度のご飯をまともに食べられない子どもたちが大勢いる」との話題が頻繁に新聞で取り上げられている。食べられない子どもたちは、アフリカ等の貧しいと言われる国のことかと思っていたら、この日本の都会での話である。
 このような折に、今年のノーベル平和賞が「世界食糧計画」に決まったと報じられた(10月10日)。概要はこうだ。
 <ノルウェーのノーベル委員会は10月9日、2020年のノーベル平和賞を、飢餓の現場に食料を届ける「国連世界食糧計画(WFP,本部ローマ)に授与すると発表した。紛争や自然災害に加え、新型コロナウイルスの感染拡大で飢餓の状況が厳しさを増すなかでの授賞となる。>

 国連世界食糧計画(WFP;World Food Programme)って何だ■
 WFPは飢餓のない世界を目指して活動する国連の食料支援機関で、1961年に設立された。緊急時に命を救い、暮らしを守ることや、その後の暮らしの再建、慢性的な飢餓や栄養不足を減らすことなどを目標とする。世界の9人に一人が十分な食料を得られないと言われるなかで、2019年には88の国・地域で約9700万人に支援を実施した。1万7千人以上の職員の多くは途上国の現場で、直接の支援にあたる。

外務省などによると2018年の全体の予算約73億ドルに対し、日本の政府拠出額は約1億3千万ドル、民間からの寄付は約1200万ドルだった。46人の日本人職員(専門職以上)がつとめている。
 (以上の記事は、2020年10月10日、朝日新聞朝刊、より引いた)
 

<コメント>食えない子どもたちの存在は実につらい。こういう私G爺は73年前に群馬の片舎中で生まれ育った。貧しい家だった。ひどい飢餓の経験はないが、夕方お腹がすくと残った麦飯を握って味噌を付けて食べたり、薩摩芋をスライスしてフライパンで焼いて食べた。小学校時代のお弁当は、卵一つにメリケン粉を混ぜて嵩を増して四等分にして四人兄弟のお弁当にいれた。それに昆布の佃煮と紅ショウガと沢庵がお弁当のおかずだった。いわゆるタンパク質と言われるものは、鰯の丸干し鰊の煮つけくらいしか食べたことがなかった。少し成長して高校生の時代に、高崎ハムという会社がモツ煮パックを販売したので、それを買って食べるのが唯一の蛋白質原であった。そんな工合で、成長期の私の身体は栄養素が不足していたのであろう。18歳~19歳にかけて、慢性肝炎に罹患した。多分A型肝炎に罹患したのであろう。その時には大学受験に失敗して浪人生活をしていた。「四つ足をたべてはいけない」と、かかりつけ内科医師に厳しく言われた。もしかしたら、蛋白質を分解する酵素(消化液)が私には不足していたのかもしれない。その時から8年後に、就職て三年目の27歳の折に急性膵炎になった。この時は空手部の同期会で飲み過ぎたために急性アルコール性膵炎になったのだ思う。この折に、2週間入院して4日間くらい絶食と点滴をして急場を乗り越えた。この折はかなり危険な状態であったのかもしれない。その時には結婚をしていて、既に長女が生まれていたのだから、連れい合いと義父母にはどれだけ心配と迷惑をかけたのかは計り知れない。この時から23年後の50歳時に、C型肝炎ウイルスによる慢性肝炎と判明した。爾来、23年間に及ぶHCVを抱えた私の後半生については「私のC型ウイルス肝炎物語」に詳述した。
 WFPのノーベル賞の話題から、自らの食料事情に思いをはせた。私は「食痴」で「味盲」である。これはやはり哀しいことだ。

注目する本『ライフスパン』(日本語版は東洋経済)

 『ライフスパン 老いなき世界』、著者はデビッド・A・シンクレア(ハーバード大学医学大学院遺伝学教授)とマシュー・D・ラブラントの二人だ。日本語版は梶山あゆみさんの翻訳である。新聞の広告には、「老いなき世界」「老化は治療できる病だ」「わたし達が・・・・    」と書いてある。
 「老化は治療できる病だ」というのは驚きだ。本当だろうか? 老化は遅らせることは出来るかもしれないが、「治療する」というのはないだろうと思う。いずれにせよ、近いうちに手に入れて読んでみたい。その日のために記憶と記録のために目次を書いておきたい。

 はじめに―いつまでも若々しくありたいという願い
 第1部 私たちに何を知っているのか(過去)
 第2部 老化の唯一の原因―原初のサバイバル回路
   生命の誕生
   生殖か、修復か―新しい環境を生き残るための仕組み
   老化の原因に注目すべき理由
   なぜに生物に寿命があるのか
   老化を説明する統合理論の確立に向けた努力
   遺伝子変異が老化の原因ではない証拠
   老化の唯一の原因は存在しないという玉虫色の見解
   私の考える「老化の情報理論」―老化とはエピのゲノム情報の喪失である

以上、概要の目次を記録した。本の感想は読んでから記す。

 

 
 

 

「新型コロナウイルス感染力―皮膚上で9時間」の記事を読んで思うこと

 新型コロナウイルスの感染拡大が起こってきてから外出先から帰宅したあ丁寧に手洗いと嗽を励行している。一方、国内で緊急事態宣言が解除されて以降、8月頃から小さな旅や外での食事を再開している。特に、外食産業は本当に危機に瀕している。私が通っている大学病院の院内食堂も閉鎖となった。家の近くの華や与平ととういうファミレスも9月17日に閉鎖された。顧客が減って経営が成り立たなくなったようだ。

 今日(2020年10月12日)の夕刊に、標題「新型コロナウイルス感染力―皮膚上で9時間」という見出しの記事が載っていた。興味を惹かれたので、記憶と記録のために引用しながら纏めておきたい。
 <新型コロナウイルスが人の皮膚にくっついた場合、9時間程度は感染力を維持できると京都府医大の研究チームが発表した。インフルエンザウイルスと比べて5倍ほどの「寿命」だったという。ウイルスがついた手で目や口、鼻をさわることで接触感染するのを避けるために、手指消毒が大切だと指摘している。新型コロナウイルスは、プラスチックや金属の表面で、2,3日は感染力を保つという実験結果がある。ただ、人の皮膚の表面についたときにどれほどの「寿命」があるかは分かっていなかった。>
 (これは野中良祐さんの署名記事だ。)

 上掲は興味深い記事だ。人の皮膚の上で9時間も生きているのなら念入りな手洗いを励行する必要があると痛感した。この記事の下に、シドニーからの外信の記事(コグレ哲夫さん)が載っていた。これも興味深いので纏めておく。
 <ガラスの表面などに付いた新型コロナウイルスは28日以上も生存する可能性がある、とオーストラリア政府系の研究機関が10月12日に発表した。世界保健機構(WHO)の、「最長72時間生存する」との見解よりも大幅に長い結果で、「まめな手洗いと表面の拭き取りが大切だ」としている。・・・・・豪連邦科学産業研究機構(CSIRO)が、ガラス、ビニール、ステンレススチール、紙幣、木綿の布の上に、新型コロナウイルスを含んだ人工の粘液を載せ、湿度50%、紫外線の影響がない暗室で生存期間を調べた。その結果、気温20度なら、木綿以外の表面には、いずれも28日後でも生存しているウイルスがあった。木綿では14日目までにウイルスは生存しなくなった。気温が高くなると生存期間は短くなった。・・・・・研究では一方で、主な感染経路は、せきや会話などで飛び散る唾液や、空気中のウイルスを含む微粒子(エアロゾル)を吸い込むことだと触れている。>

 以上は、興味深い記事だ。気温20度では28日以上も生存する可能性があるとは驚きだ。気温が30度以上と高くなると生存期間が短いとのことだが、逆にこれから冬に向かう折から気温10度やマイナスになったらどうなるのだろうか?そちらの研究もして欲しい。最初、新型コロナウイルスの感染が出たのは真冬の武漢だったからウイルスは寒さには強いのではないだろうか?

 

 

 

中村悦子著『テクサ酒井澄子』(『ニコライ堂の女性たち』第4章)を読んだ

中村悦子著『テクサ酒井澄子』(『ニコライ堂の女性たち』第4章)を読んだ。すごい労作である。
 中村悦子さんは歌人である。テクサ酒井澄子も歌を詠む人である。酒井澄子は明治38年1月4日に、満37歳と3カ月の生涯を閉じている。
 「はやゆきて天つみ国のたよりせんうれしき旅よ今日の門出は」という辞世の歌が紹介されていた。夫の医師荻原みち彦の不審死(沼で溺死した)で、澄子の結婚生活は四年にみたなかった。夫の死んだときに澄子は身重であった。そのご、二人の用事を函館の母(エレナ酒井ゑい)に託して再び上京してニコライ堂の女子神学校の教師となる。その後の紆余曲折の労苦をここでは省くが、まさに悲哀に満ちた短い生涯の道筋は、ここで紹介する中村悦子さんの類まれな調査によって私たちの前に明らかにされた。

 この章のすごいところは、悦子さんの取材力といえるだろう。本章の文末には、二つの付記が書いてある。「その一」は、澄子の長女エカテリナ荻原清子(彼女も母と同じ正教徒として生きた)のことが書いてある。結婚して後藤清子改姓した清子の息子たちが、つまり祖父荻原の系譜を継いで医師となっている。二男定(さだむ)ガ、札幌第一病院に勤務、四男守る(まもる))は、公立札幌病院長を務めた。後藤清子は、昭和48年月に、札幌の二男定宅で、81歳の生涯を閉じている。私が札幌にいた昭和41年~45年には健在であったのだ。「そのニ」は、

(更新予定)

中野量太監督の新作映画「浅田家!」を観たい

 中野量太監督の新作映画「浅田家!」を観たい。
 中野さんは、新百合ヶ丘にある日本映画学校出身の若い映画監督だ。これまでに、「湯を沸すほどの熱い愛」「長いお別けれ」を観てきた。とくに、「長いお別れ」は私の住んでいる地域のはるひ野駅でロケをやっていたので印象が深い。こんどの映画は、写真家・浅田政志さんと家族の実話を基に、家族の絆と写真の力を描いた映画だという。キャストしては、二宮和也黒木華、菅田将〇、風吹ジュン平田満妻夫木聡らがでる。名前の知れた俳優が沢山出るので、中野監督もだいぶメジャーになった。
 記憶と記録のためにここに書いておいた。観てから感想を書きたい。

(後日、更新予定)

『テクサ酒井澄子』(『ニコライ堂の女性たち』第4章)を読みながら思う

 『テクサ酒井澄子』(『ニコライ堂の女性たち』第4章)を読んでいる。
 この本は、中村健之介さんと奥様の悦子さんとの共著である。第2章山下りん、第3章 フェオドラ北川波津、第5章エレナ瀬沼郁子の3つの章は健之介さんの仕事である。残りの4つは悦子さんの仕事である。既に健之介さんの書かれた3つの章は読んだ。瀬沼郁子の記述はかなり厳しい男の目から書かれていると感じた。
 第4章の酒井澄子は、第1章酒井ゑいの娘である。悦子さんは随分と綿密な調査取材に基づいて書かれている。酒井澄子の章の感想は読後してから書きたい。ここでは、著者の中村悦子さんの想い出を書きたい。
 私は学生時代に健之介さんを通じて奥様の悦子さんの知己も得ていた。中村悦子さんは、お生まれは函館で札幌市にある藤女子大学国文科の出身で歌を詠む人である。たしか当時、「原始林」という歌誌の同人であったと思う。私の学生時代にガリ版刷りの「歌集」を作って差し上げたことがあった。ロシア文学ともロシア語とも無縁であったはずの悦子さんは、夫の健之介さんのモスクワ留学に同行してモスクワに滞在中にニコライの日記の発掘に、一緒に奔走された。このことは本書の「あとがき」に書いてある。そうした経緯で、奥様の悦子さんも人並みを超えたニコライやニコライ堂の女性たちに精通してきたのだと思う。「ニコライ堂の女性たち」の文章は、ロシア・ソ連の文献(書籍・雑誌・新聞)の輸入販売会社「ナウカ書店」の広報誌「窓」に掲載されたものが初出らしい。日本のロシア語学習の衰退やインターネットによる情報伝達手段の変化に伴い「ナウカ書店」は、2006年頃に倒産して今はないと思っていた。しかし、直ぐに翌2007年に合同会社として、「ナウカ・ジャパン」という名称で再建されて神保町に現存するようだ。随分前から、「ナウカ」と「日ソ図書」という二つの会社がロシア語文献を扱う会社であった。「日ソ図書」は1990年代には本郷の裏通りにあったが今はない。どこかで現存するのだろうか。

 さて、本書の「まえがき」にはこう書いてある。
 「この本は、明治時代、ニコライとともに生き活動し生涯をかけて正教会のために尽くしながら、その教会においてさえほとんど忘れられてしまった女性たちの、その声を聴こうとする努力である。私たちは「ニコライ堂のじょせいたち」がどのような人たちであったのかを、彼女たちのその「才能」を、見ようとしているのである。7人の女性たちのそれぞれの生涯には、われわれに語りかけることばがこめられているのを感じる。そのことばを聞きたい。それを、でっきることなら過去からいまへ解き放ちたい、そう願っているのである。」
 なんと熱いメッセージであろうか。本書のような仕事は何なのだろうか。文芸評論ではない。文学研究でもない。いわば人間の掘り起こしとでもいうのであろうか。ノンフィクション小説のようにも読めるが、詳細かつ膨大な後注まで含めると「人間探求考察」のように思いながら読んでいる。
 本書の冒頭に次のような献辞が載っている。
 「切羽で仕事をしたいと言っておられた寺田透先生に、本書を捧げる。」
 寺田透さんは、健之介さんの東京大学大学院時代(卒業をせずに国際基督教大学の履歴)の恩師である。学生時代に、「寺田さんが・・・」という話を聞いたことがある。おそらく優れた師であり私淑されていたんであろう。ところで、切羽(せっぱ、きりは)とは、刀の鍔のの根元に入れる金具らしい。「切羽で」とは、切羽詰まるの言葉があるが、命がけとでも言う意味だろうか。

 本書「ニコライ堂の女性たち」は2003年に刊行されている。かなり厳しい仕であったのだと推察する。読むと、ニコライ堂の女性たちの声が聞こえるほどに思う。良い本に出会った。