TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

「流浪の月」という映画をみたぞ

 映画「流浪の月」を新百合ヶ丘イオンシネマで見てきた。長い訳の分からない映画であった。本屋大賞の傑作小説を李相日監督が映画にしたんだ。20年位前に、少女を自宅の部屋に5年くらいの間住まわせていた事件があった。この小説はそれをモデルにしたものであろうか。

<帰れない事情を抱えた少女・更紗と、彼女を招きいれた孤独な大学生・文。居場所を見つけた幸せを噛みしめたその夏の終わり、文は「誘拐犯」、サラさは「被害女児」となった。>

 映画は、この事件から15年たって、二人とも成人となってか再開して展開していく。不自然な出会いや、話の流れが多かった。落ちは、主人公の男性・文の子供時代に、母親が庭に植えた一本の植木を、「失敗作」だからと言って、引き抜いて捨ててしまう場面が出てきていた。
 映画の最終場面で、主人公が母親に、「僕は失敗作ですか?」と問いかける場面があった。これが、この映画の「キー」である。ラストシーンで、主人公が裸になって男の象徴である股間を見せる場面がある。未発達で男の機能を備えてなかったことが表されているようである。このシーンをだしたことは、最近のLGPTを尊重する、また性の多様性を容認し尊重することの難しさを示している。「みんあ違ってみんないい」が一番いいのだが・・・。今では有名人となった乙武さんが、手足のない姿で生まれた時に、人目めいた母親が、「可愛い」と叫んだというエピソードを聞いたことがある。

 ともあれ、難しい映画であった。出演者の、広瀬すず松坂桃李は迫真の演技であった。

24時間の素面を生きる

 一昨日(2022年5月15日、日曜日)の夕食時にビール1缶(350㏄)と焼酎100㏄を飲んだ。それから、素面で暫く生活してみることにした。そこで、『しらふで生きるー大酒飲みの決断』(町田 康さん)を三回になるが読みだした。すると、町田さんは、日本語の文章が驚くほど上手なのに気が付いた。日本語の達人なのだ。読んでわかりやすい。

酒こそ、人生の愉しみ、か?

 この、序章にあたるところでは、古代の大酒飲みの大友旅人を紹介している。町田さんは、大伴旅人にならって、大酒飲みだった。倣ってというより、敬愛していたんあろう。でも、こういう掟はじぶんに課していた。

 <(旅人を紹介してから)まあ、それはそうとしてとにかく、昼間は飲まない、そして、仕事が終わるまでは飲まないという方針を打ち立てた私は、仕事はなるべく午前中に済ませる。午後四時以降は仕事をしない。などの運用上の工夫をしながら三十年間、一日も休まずに酒をのみ続け、生きていればいろんなことがあるが自分の人生に概ね、満足し、このまま飲み続けて、まあ、あと二十年くらいしたら死ぬだろう、と漠然と思っていた。ところが。ある日、大変化が起きた。>

 町田さんの文章は流れるようだ。わかりやすいのだ。文章の展開にむりがない。いわば、思考の流れというか、独白が流れるように続 いている。
 町田さんは、物書きで、音楽家でもあったので、9時から5時とかの勤務時間がないから、早めに仕事を切り上げて、午後4時から酒を飲むことができたんだ。町田さんが、「あと、二十年くらいしたら死ぬだろう」というのは当たっていると思う。「ある日、大変化が起きた」というのは、町田さんが、二十年より生きてみたくなったのではないか?

 酒やめますか? 人間やめますか?

 <ある日、具体的に申せば平成二十七年の十二月末日、私は長い年月、これを愛し、のみ続けた酒をよそう、飲むのをやめようと思ってしまったのである。>

 このように、思ってしまったのは、町田さんは実は、「このままではまずい、俺はこのままでは二十年は持たないな」と気がついたのである。

 ところで、私ときたら、もう七十五歳で、仕事も退職しているので、実は朝から飲んでも誰にも(ということはないか、連れ合いにかけるか)迷惑はを表面上はかけないだろう。私もいま、「このままではまずいな、毎日、夕食時に,ビール一缶と焼酎1合を飲み続けてもすぐには死なないだろう。でも、あと5年は持たないかもしれないな」と気が付いたのである。
 そこで、一昨日から、少しの間、飲むのをやめてみた。そして、複数の本を読んでいる。『暗夜行路』(志賀直哉)、『復活』(トルストイ)、『小説の読み方』(佐藤正午)、『しらふで生きる』(町田 康)である。
 酒を飲まないと、本を読む時間が増える。これは確実である。

 いずれ死ぬのに、節制など卑怯ではないか

  ともかく、町田さんの文章は読み易い。「言文一致体」という表現があるが、むしろ「思考一致体」とでもいうのか、頭の中で考えていることを流れるように言葉に置き換えているのである。
 私は、この本をもう三回も読んでいるので、町田さんが酒を止めた理由を、私は知っているのである。「このままいったら、後5年間くらいで死ぬな」と気が付いたのである。町田さんは平成27年(2015年)の12月に酒をやめたから禁酒して7年たっている。お元気で執筆しているようだ。多分、あのままであったら西村賢太さんと同じ道を歩んだろう。
 さて、私の禁酒も48時間を経過した。私は町田さん程大酒飲みではなかった。勤め人だから、どんなに早くても午後5時からでないと飲めなかった。私はケチで姑息な大人だから、やけ酒というか自分をだますために酒を飲んできた。逃げ酒なのであった。そこで、町田さんの本を3回も読みながら三度目の節酒をしている。このままいくと、倒れるなという予感がするのである。ヘルペスの痛みが、ここ1ヶ月は抜けない。左背中が痛い。

 今も続く正気と狂気のせめぎ合い

 <つまり一昨年の十二月末、私は気が狂っていた。
 気が狂っていたので、酒をやめる、などと正気の沙汰とは思えない判断をした。そしてそのあとき、私の頭にはふたつの考えが併存していた(なぜなら気が狂っているので。)そのふたつの考えのうち、正気のほうが狂った方を突き落とした。>

 町田さんは、酒をやめるとふと思ったのはなぜかと問い詰めている。私にいわせれば、もう少し生きたくなったんだとおもう。「このままでは、あと20年はおろか10年も持たないかな、と気が付いたんだ」と思う。

<つまり私はこの一年三カ月の間ずっと闘い続けてきた。私は飲みたいと正気と闘い、ま飲まないという狂気とも闘い続けてきたのだ。これを文学の業界では内面の葛藤と呼ぶ。>
 やはり小説家はうまいことを言うね。2015年12月に酒をやめたから、この本を書いているときにはもう1年3カ月も経っているんだ。これは、すごいことだ。「葛藤」もいいところだね。

 人生は本来楽しいものなのか? 苦しいものなのか?

 <酒をやめた理由を知っている狂気は歩道橋から落ちて行方知れず、おそらく死んだもと思われるのだが、幸いにして正気と闘っている方の狂気はまだ元気で、というのは当たり前の話だ、元気でないと闘えない、さっそく私は狂気のところへ話を聞きに行った。>
 このところは、論理の展開についていくのが面倒になってきた。ようするに、人生は本来、楽しいもんじゃないんだと、言っているのではないか? 酒を飲んで、一時、楽しくなったってしょうがないじゃん、と言っているのでは?

 飲酒とは人生の負債である

 ここの項目は、<酒をやめた>狂気の内面に迫っている。

「酒の愉しみは人生の資産でなく、楽しみと呼んでいるものは実は負債そのものであった、とい


 わかっちゃいるけど、酒をやめられないんだよな。きょうで、四日の禁酒が続いている。町田さんは、1年3カ月飲んでいない。
 

 肉体の暴れを抑制する方法を考える

 「肉体の暴れ」ということは、「酒を飲みたいという身体の欲求」のことと町田さんは行っている。つまり、どうしたら酒を飲まずにいっれるかの方法を考えているのである。

〈だからといって肉体の言うがままになっているわけにもいかず、そこはなんとか意志の力を鍛え、意志の働きでこれをやめるようにするよりほかはない。〉

 ところが、それがそう簡単ではないのを知っている、みんなが。「ちょいと一杯のつもりで」のんでもとの木阿弥。

 

 禁酒会の連帯感でさけはやめられるか?

 身体にわるい。人生の債務超過。そんなことは重々承知している。、、、、禁酒会には入って、みんなで止めればやめられるかというと、そううまくはいかない。

 

 酒を飲みたい肉体の暴れは肉体で縛る

 自分の身体を自分で縛って押さえつけて酒を飲まないようにすることはできないのだ。

 

 嫌酒薬は苦しみだけをもたらす

 毒をもって毒を制することができるのか?

 町田さんは、できないといっている。嫌酒薬を飲むと気持ちが悪くなるらしい。お金もかかる。そんな、薬をのむくらいなら暫くは酒を飲まないようにしよう。でも、永久にやめられない。

 

 禁酒宣言で背水の陣だ!

 禁酒宣言をしても酒はやめられないのだ。このことを、私も先見的にわかっているので、禁酒宣言はしなかった。節酒宣言のようなものは出した。そして、1週間くらいは酒をよしたことがある。今回、月曜日から土曜日まで酒を休んだ。これだけで、口唇ヘルペスの症状が消えた。やはり、酒の毒が身体の免疫系を著しく壊していたようだ。
 ということで、禁酒宣言は出しても役に立たないのだ。

 改造された人間になるか? 人間を改造すか?
 ここでも、町田さんは、多言を弄しているが、酒をやめられないと分かった。「私たちは改める改め方をさらに考える。そのことのよって考えを改め認識を深め、酒をやめなければならない。」

人間改造ができないなら、人格改造、いや認識改造で

 まちださんは、こんあことを言っている。「酒をやめるために人格まで改造する必要はなく、認識改造で十分なのである。」
 第一、人格改造なんてできないのだ。だから、ようは考え方を変えようという提案のようだ。町田さんは、立派にもう酒を7年もよしている。私は、まだ昨日から30時間くらいの間、素面でいるに過ぎない。でも、酒を飲まないと、本も読めるし、こうしてブログも書ける、利点がある。

 認識改造の第一歩は自惚れからの脱却

 このところで、町田さんが言っているのは、卑屈になるのではなくて、謙虚になれってことらしい。だいたいのひとは、「まま自分はいいひと」だと自己認識している。それは、それで間違っているのでHないが、「自惚れ」から自分を解き放つことだと言っているようだ。「謙虚」になれば、腹がたたず、自棄酒はなくなる。

続く

 人間は「自分」のことをまともに判断できない

 この章はは、自分の認識改造に言及している。こういうことだ。

<自分をどのように捉えるのか「この偉い俺」と考えるのか「この何もしらない私と考えることによって世界の見方が随分と違ってくる、乃ち、自己認識改造をするこおtによっ酒をやめようと申し上げているのである。>

 ここで、町田さんは、うれない芸術家、音楽家でもいいをれいのとって、論理を展開している。俺は一流の音楽家なのに世間に迎合しないので売れない。これは、こういうことになる。

<自分は幸福である権利を有している。ところが今朝方かたから夕方にかけて不当にこれを奪われた。ひどい目に遭った。そこで、自分は夕方以降、そもそも有していた幸福を感じる権利を行使することができるはずである。>

 この、町田さんの論理をわたしのようなサラリーマンにあてはめるとこうなる。今日一日、くそおもしろくもない仕事をやってきた、上司にもパワハラされた。不当な扱いを受けた。やけ酒だ、酒で憂さをはらそう。「幸福を感じる権利を行使する」ということになる。一杯やろう。

 ここで、町田さんは、売れない芸術家も、さえないサラリーマンも、別に不当な扱いをうけたのではないこと、を説明している。そして、こう展開する。

<それでは次に、一、そもそも幸福である権利があるのか。そして幸福とはなにか、について考えることによってさらに認識改造を進め、断酒の栄光に至る道を進んで行こう。>

 と、こういうぐわいに論理の展開が進む。さて、私は酒をやめたくて、町田さんの本を3回読んでいる。すくなくとも、読んでいるときは飲んでいない。「読むなら飲むな」となうのである。

 私たちに幸福になる権利はない

 ここのところで、町田さんの論理は佳境にはいってきた。そもそも、酒をのででもいいが、わたしたちに幸福になる権利がもともとないのだ、というのだ。

<「酒は涙か溜息か。心の憂さの捨て所」 という文言はそうした意味で酒の本質をズバリと言い表した句である。・・・自己認識改造に寄って改めることができれば、おさけくらい飲ませてよ。から、酒を飲んだところでなににもならない。というとこ炉まで駒を進めることができ・・・・」

 このあたりは、随分、核心に近ずいてきたかな。

 

続く

 

 

『暗夜行路』(志賀直哉)を読み始めたぞ

 『暗夜行路』(志賀直哉)を読み始めたぞ。この小説はは、多分、中学が高校の国語の教科書に一部分が載っていた。主人公の時任謙作が、鳥取の大山という霊山に登る情景が載っていたと思う。「六根清浄御山は晴天」という声を出しながら登っていくのだったと思う。
 それにしても、『暗夜行路』ってこんなにも暗いテーマの物語だったんだ。 冒頭に、「武者小路実篤兄にささぐ」という献辞が付いていたのだ。

 岩波文庫版の、表紙の見返しにこうかいてあった。「祖父と母との不義の子として生まれた宿命に苦悩する主人公時任謙作は、単身、尾道に向かい、千光寺の中腹の家を借り、一人住まいを始める。・・・・」と、前編の粗筋がかいてあった。これから、読んでいく。

歌壇と俳壇の朝日新聞を読む

俳壇を初めに読んだ。

 <老ゆるとは友の死ぬこと桜散る(横浜市 加藤重喜)>⇒大串章
:「第三句。友の死を聞くたびに自分の余命を思う」と、選者の大串さんがコメントしていた。まったく、そのとおりだね。

<春潮や堀江謙一ハワイ沖(伊賀市 福沢義男)>⇒小林貴子、長谷川櫂共選:
 「春潮」は「しゅんちょう」と読めばいいのかな?堀江さん、83歳だろうか?また、太平洋に独りぼっちなのだ。

 次に、歌壇に移る。

<その靴とズボンで夫を見分けたと妻が戦争の惨さを語る(観音寺市 篠原俊則)>⇒佐佐木幸綱
 篠原さん、戦争をしっている世代は、90歳過ぎた親の世代のことを詠っているのか?

<オリガルヒの息子がドバイで享受する豪華ヨットと高級キャビアを(小金井市 神蔵勇)>⇒高野公彦:
 高野さん、「一首目、ロシアにオリガルヒ(新興財閥)が幾つかあってプーチン政権を支えているらしいが、実態は不明という」と、コメントしている。実態不明なんなら、何でこんあ歌を選ぶのかな。つまらん歌だと思う。

<捨てられずなんでもかんでもとっておく夫に私もとっておかれる(秦野市 三宅節子)>⇒永田和宏せん:
 三宅さん、謙遜した歌を詠んだね。あなたのほうを夫はたぶん大事にしているんだよ。

<かつての日アウシュビッツを解放し手を延べたるはソ連兵なり(長野県 千葉俊彦)>⇒ 馬場あき子選:
 ウクライナで戦争が始まってから、ウクライナの歌が多くなってきた。かつ、なだか哀しい世相歌が多い。
 歌は時代を切り取るのだね。

<せせらぎに春の光は砕けつつ鮭の稚魚らは海に出ること(山形県 南岡二郎)>⇒馬場あき子、佐佐木幸綱共選

風にひら花びらひらとひろがれりひとたび地にふれまた風にひら福津市 岩永芳人)>⇒永田和宏選:

 岩永さんの、歌がなんとも面白い。今週の、私の一押しだ。

志賀直哉 暗夜行路 を読んだことが多分無い

 『行人』と言う夏目漱石の小説を読んだことがある。高校生の時に、この本の文庫本を読んでいて、それを枕もとか、そのへんにおいておいたら、親父がみつけて読んで、「お前、こんなもの読んで分かるのか?」と言った。最後まで読んだのかどうかは覚えていない。「行人」という小説は、不倫なのか心理的な裏切りなのか随分むつかしい重いテーマの話だったと思う。漱石の小説はどれもこれも重い話だと思う。
 佐藤正午さんの岩波新書『小説の読み書き』を読んでいる。志賀直哉『暗夜行路」のところを読んでいる。この小説も国語の教科書で断片を読んだだけであろう。主人公が時任謙作という名前で、鳥取の大山に登る話ではなかったろうか。志賀直哉にせよ漱石にせよ、当時の小説はテーマが重いのだ。これは、ロシアのトルストイの『復活』もドストエフスキーの『罪と罰』のテーマも重いのと同じだ。国民文学といううものはそういうものだろう。
 『暗夜行路』を読んでみたい。

気になる本「テレビの重罪」(宝島社新書)のこと

   精神科医和田秀樹サンが、また本を出した。『テレビの重罪』という本だ。
 <「正義」の暴走が現実を捻じ曲げ、命まで奪っている!>
  こういうキャチフレーズが広告に書いてある。米国の「正義」を受売りするだけの戦争報道、自粛の副作用を無視して国民の命を健康を損ねたコロナ報道、予定調和の「子どもの虐待」報道の無責任ぶりなど、テレビが犯してきた重い罪を明らかにする。

 上記の、広告の文章をよむと興味をひかれる。和田さんは精神科医であるが、今では物書きとしての活動の方が大きいのではないか。

 

認知症カフェ」を訪ね歩き紹介を続けるカメラマンーコスガ聡一さん

「ひと」欄にコスガ聡一さんというカメラマンのことが載っていた。朝日新聞(2022年5月12日)朝刊だ。「認知症カフェ」なんというものが、日本にたくさんあるんだという。

認知症の当事者や地域の人々が集まって情報を共有し、理解を深める場の認知症カフェ。ここ6年で300ヶ所ほど訪ね歩き、ブログなどで発信してきた。〉

 コスガさんは、フリーカメラマンで、俳優や歌手の写真を取っていた。転機は、30代半ばで担った、製薬会社出資の冊子つくり。認知症を診る医師らのインタビューを撮影中に、聞き耳を立てた。認知症との出会いだ。無知を知り、付き動かされたんだという。
 「認知症になるのは不運だけど不幸と決めつけない社会にしたい」
 こういう動機で、新しい仕事を進めていく人もいるんだ。コスガさんは、まだ45歳の若い人だ。興味を持ち、記憶と記録として書いておいた。