私の「医人」たちの肖像―(119) 日野原重明さんと「よど号ハイジャック事件」

 

(119) 私の「医人」たちの肖像―日野原重明さんと「よど号ハイジャック事件

 

よど号ハイジャック事件 

 1970(昭和45)年3月31日(火曜日)、午前7時33分、羽田発板付空港(現・福岡空港)行きの日本航空351便が、富士川上空を飛行中に日本刀や拳銃、爆弾などの武器とみられるものを持った犯人グループにハイジャックされた。犯人たちは男性客を窓際席に移動させ拘束した。一部のものは操縦室に侵入して相原航空機関士を拘束、石田機長と江崎副操縦士平壌に向かうよう指示した。この要求に対して、江崎副操縦士は、「この飛行機は国内線であるから平壌までは燃料が足りない」と犯人に説き、給油の名目で板付空港に8時59分に着陸した。「よど号ハイジャック事件」である。給油を済ませたよど号は再び平壌を目指して離陸するが、機長らの機転で韓国金浦空港に着陸する。その後の展開は歴史的な事実として記録があるので詳細は譲る。 

 ■日野原さんもよど号に乗っていた■

 事件当日から福岡市では日本内科学会が開催予定であった。そのために乗客には医師が多く含まれていた。これらの医師らは、福岡で「病人」や高齢との理由で解放された人質の選定に協力した。その中には、虎の門病院院長であった元東大教授の沖中重雄、東大医学部内科の吉利和教授や聖路加国際病院内科医長の日野原重明らが含まれていた。

 このよど号に乗り合わせたことが日野原さんのその後の医師としての生き方に大きな影響を及ぼした。以下、「日野原重明先生の生き方教室(大西康之編著)」を参考に記す。

 

 「これは大変なことになったと思い、とっさに頭に浮かんだのは、こうした緊急事態で人間の脈拍はどうなるだろうか」という疑問でした。隣に座っていたご婦人の脈をとろうと思ったのですが、妙な疑いをかけられても困ると思いとどまり、自分の脈を計りました。」

 「するとやはり、いつもより脈が速くなっていて、ああ、私はいま興奮しておるんだな、と納得したのです。つくづく医者なんですね。」

 福岡から平壌に行く先を変えた飛行機が海峡の上を飛んでいるときに、「機内に持ち込んでいる赤軍機関誌やその他の本を貸し出す。読みたいものはてを挙げろ」と機内放送があった。乗客のなかで実際に本を借りたのは日野原さんだけであったという。

 「彼らが持ち込んでいたのは、レーニン全集、金日成親鸞の伝記、伊藤静雄の詩集などでしたが、その中にドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』がありました。「それが読みたい」と手を挙げると、彼らは文庫本5冊を私の膝上に置いてくれました」 5冊の文庫本というと米川正夫訳の岩波文庫だろうか?

 「そこにはこう書いてありました。『一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん。死なば多くの実を結ぶべし。』 ヨハネ福音書の一節です。この言葉に出会って、すうっと心が落ち着きました」 

「強行突入ということにでもなれば、私も命をおとすかもしれない。いのちとは何か、しとは何か。そのとき私は深くかんがえたのです」

 「一粒の麦もし地に落ちてしなば・・・・」この有名な福音書の一節は『カラマーゾフの兄弟』の冒頭に掲げられたエピグラフである。キリスト者の日野原さんのこころを鎮めるにふさわしい言葉だったに違いない。

 飛行機は平壌に向かっていたがパイロットは38度線付近で期待を左に旋回させ、韓国の金浦空港に降り立った。ハイジャック犯の多くは平壌に着いたと思ったが、メンバーの一人が着陸前に、「シェル・ガソリン」スタンドを見つける。騙されたと気付いた犯人たちは激高し、金浦空港で3日間機内に籠城した。4月3日(金曜日)、日本から駆けつけた山村新次郎・運輸政務次官が身代わりになることで、日野原さんら人質は漸く解放された。

 「金浦空港の地面を踏んだ瞬間、僕は足の裏からビビビッと霊感のようなものを感じたのです。自分が生きているということを実感しました。この命は『与えられたいのち』であると思ったのです。」

 日野原さんは、金浦空港で妻の静子さんに出迎えられ、その日の深夜には東京の自宅に戻った。

「自分が多くの人々に支えられてきたことを実感しました。だから、与えられたいのちを、これからは誰かのために捧げよう、と決心したのです」

 この事件をきっかけに、当時58歳だった日野原さんは、内科医、研究者としての名声を求める生き方をきっぱりと止めた。そして3年後、1973年に、財団法人ライフ・プランニング・センターを設立して、自らその理事長に就任した。当時は、「医療」といえば主に「治療」を目指していた日本で、「予防医療」の考え方を広めようとしたのである。

 今日は、日野原さんと「よど号ハイジャック事件」に触れた。「よど号事件」のことは、冒頭でも明記したが大西康之著「日野原重明先生の生き方教室」から多くを引用した。
 最後に、蛇足になるが事件当日、私は札幌市で読売新聞の販売店に寄寓し配達に従事していた。何時もなら午後14時頃には到着する夕刊が来ない。4時間くらい遅れて午後18時頃に到着した。その日の夕刊は、「よど号事件」の詳細を報道するために刷り直しを余儀なくされたのだった。新聞学生の私は、「よど号事件」の全貌をその時点では知る由もなかった。その時から1年後の1971年3月31日に札幌を後にして東京に転居した。翌4月1日から、東京の医学系出版社I書院での勤務を開始した。日野原さんに会ったのは更に10年ごの1981年だった。

(2019.11.28)  

 (私の「医人」たちの肖像―〔119〕 日野原重明さんと「よど号ハイジャック事件」)