TomyDaddyのブログ

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私の「医人」たちの肖像― (1) 日野原重明さん①と「よど号ハイジャック事件」~1970年3月31日(火)

(1)日野原重明さん①と「よど号ハイジャック事件」~1970年3月31日(火)

 ハイジャック事件が起こった。一九七〇(昭和四五)年三月三一日(火曜日)、午前七時三三分、羽田発板付空港(現・福岡空港)行き日本航空三五一便が富士川上空を飛行中に、日本刀・拳銃や爆弾などの武器とみられるものを持った犯人グループにハイジャックされた。「よど号ハイジャック事件」と後に呼ばれる日本初のハイジャックである。
■「
よど号ハイジャック事件
●一九七〇(昭和四五)年三月三一日(火):
 犯人たちは、男性客を窓際席に移動させ拘束。一部のものは操縦室に侵入し、相原航空機関士を拘束。石田機長と江崎副操縦士平壌に向かうよう指示した。この要求に対して、「この飛行機は国内線であるから平壌までは燃料が足りない」と江崎副操縦士は犯人に説き、給油の名目で板付空港に八時五九分に着陸した。給油を済ませたよど号は再び平壌を目指して離陸するが機長らの機転で韓国の金浦空港に着陸した。
 その後の展開は歴史的な事実として記録があるので詳細は譲る。
■日野原さんもよど号に乗っていた■
 事件当日から日本内科学会が福岡市で開催予定であった。そのために乗客には多くの医師が含まれていた。これらの医師は「病人」や「高齢」との理由で福岡にて解放された人質の選定に協力した。その中には、虎の門病院院長で元東大教授の沖中重雄さん、東大医学部内科の吉利和教授、聖路加国際病院内科医長の日野原重明さんらが含まれていた。よど号に乗り合わせたことが、その後の日野原さんの医師としての生き方に大きな影響を及ぼした。
 以下、『日野原重明先生の生き方教室(大西康之編著)』を参考に記す。
 「これは大変なことになったと思い、とっさに頭に浮かんだのは、こうした緊急事態で人間の脈拍はどうなるだろうか」という疑問でした。隣に座っていたご婦人の脈をとろうと思ったのですが、妙な疑いをかけられても困ると思いとどまり、自分の脈を計りました。」
 「するとやはり、いつもより脈が速くなっていて、ああ、私はいま興奮しているんだな、と納得したのです。つくづく医者なんですね。」
 福岡から平壌に行く先を変えた飛行機が海の上を飛んでいるときに、「機内に持ち込んでいる赤軍機関誌やその他の本を貸し出す。読みたいものは手を挙げろ」と機内放送があった。乗客のなかで実際に本を借りたのは日野原さんだけであったという。
 「彼らが持ち込んでいたのは、レーニン全集、金日成親鸞の伝記、伊藤静雄の詩集などでしたが、その中にドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』がありました。『それが読みたい』と手を挙げると、彼らは文庫本五冊を私の膝上に置いてくれました。」
 五冊の文庫本というと米川正夫訳の岩波文庫だろうか?
 「そこにはこう書いてありました。『一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん。死なば多くの実を結ぶべし。』ヨハネ福音書の一節です。この言葉に出会って、すうっと心が落ち着きました。」
 「強行突入ということにでもなれば、私も命をおとすかもしれない。いのちとは何か、死とは何か。そのとき私は深くかんがえたのです。」

 「一粒の麦もし地に落ちてしなずば・・・・」
 福音書の有名なこの一節は、『カラマーゾフの兄弟』の冒頭に掲げられたエピグラフである。クリスチャンの日野原さんの心を鎮めるにふさわしい言葉だったに違いない。
 飛行機は平壌に向かっていたが、パイロットは三八度線付近で機体を左に旋回させ、韓国の金浦空港に降り立った。ハイジャック犯の多くは平壌に着いたと思ったが、メンバーの一人が着陸前に、「シェル・ガソリン」スタンドを見つける。騙されたと気付いた犯人たちは激高し、金浦空港で機内に三日間、籠城。四月三日(金曜日)、日本から駆けつけた山村新次郎・運輸政務次官が身代わりになることで、日野原さんら人質は漸く解放された。
 「金浦空港の地面を踏んだ瞬間、僕は足の裏からビビビッと霊感のようなものを感じたのです。自分が生きているということを実感しました。この命は『与えられたいのち』であると思ったのです。」
 金浦空港で妻の静子さんに出迎えられた日野原さんは、その日の深夜には東京の自宅に戻った。
 「自分が多くの人々に支えられてきたことを実感しました。だから、与えられた命を、これからは誰かのために捧げよう、と決心したのです」
 当時五八歳だった日野原さんは、内科医・研究者としての名声を求める生き方を、この事件をきっかけにキッパリと止めた。そして、三年後の一九七三年に「財団法人ライフ・プランニング・センター」を設立して、自らその理事長に就任した。「ライフ・プランニングということ」について、日野原さんは次のように述べている。
 「ライフ・プランニング・センターの目指すものの内容を、短い言葉で表現すると次のようである。『個人に健康の主体性を自覚させ、よい環境(自然・栄養・家庭・社会)のなかに、生涯を通しての健康生活の設計をたて、その実践への道を開くこと』である。」(日野原重明著『医療と教育の刷新を求めて』医学書院、一九七九年刊)
 当時は、「医療」とはいえ、主に「治療」を目指していた日本で、予防医学・医療の考え方を広めようとしたのである。
 日野原さんと「よど号ハイジャック事件」に触れた。「よど号事件」のことは、冒頭でも明記したが、大西康之著「日野原重明先生の生き方教室」から、多くを引用した。
■私の転機―札幌から東京へ
●一九七一年三月三一日:
 
ハイジャック事件当日、私は札幌市南部の藻岩山麓に近い読売新聞播磨販売店に下宿して新聞配達に従事していた。午後一四時頃には通常なら到着する夕刊が来ない。四時間くらい遅れて午後一八時頃に夕刊が到着した。「よど号事件」の詳細を報道するために、その日の夕刊が刷り直しを余儀なくされたのだった。新聞配達アルバイト学生の私は、「よど号事件」の全貌をその時点では知る由もなかった。その時から一年後の一九七一年三月三一日、札幌を後にして東京に転居した。翌日、四月一日から東京の医学系出版・医学書院での勤務が始まった。

 「よど号事件」は,私にとっても風雲急を告げるような転機と重なる想い出となった。
(2019.11.28)
私の「医人」たちの肖像―〔1〕日野原重明さん①と「よど号ハイジャック事件」~1970年3月31日)