TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

「人生100年」の現実(耕論)に触発されて!

  新年早々それも73歳の誕生日の1月7日(火)頃に風邪をひいた。9日(木)夜、合気道の稽古に参加した。その後小康を保っていたが12日(日)合気道師範の新年会で酒を飲みたいので処方薬がでるであろうクリニック受診も躊躇した。遅れて14日(火)に受診したら、抗生物質を含む5種類の薬を処方された。それを5日間のんで現在に至る。その間12日(日)と22日(水)と2回の合気道の稽古をを欠席した。そして本日(23日)のPENクラブの例会も欠席と相成った。結局、19日(日)の新宿での用事は辛うじて予定通りに遂行することができた。かくして、生活の質(QOL:Quality of Life)を頗る損なう事態と相成った。好意的にみると「風邪をひいている暇な時間が持てた」ということになる。今から14年くらい前の2006年頃、酷い風邪をひいたことがる。その折には熱はでなかったので風邪をひきながら勤務して30日ほど低空飛行の生活をした経験がある。当時は、「風邪をひいても休む時間はなかった」のである。
 本日の朝日新聞(他の新聞を購読していない)の一面の広告に興味深い本が載っていた。「風邪・インフル撃退―絶対に休めない医師がやっている最強の体調管理」(日経BP)という本である。著者は大谷義夫さんという医師の本である。「著者が実践する、科学的に正しい予防週間―教えてもらう前と後ー名医」の太鼓判」というキャッチコピーが憎い。読んでみたいが、買いたくない。図書館にリクエストしたい。私はいま風邪をひいているので「風邪予防」がとても気になるのだ。

 <人生100年」の現実>という今日の朝日の「耕論」という記事に触発された。

 「耕論」(こうろん)と読ませるのだろうが、パソコンで「熟語」が出てこない。「たがやす・ろん」ということで、文字ずらを見るとよくわかる気がする。冒頭にはこう書いてある。
 「人生100年時代」という言葉には、前向きな響きがあります。でも大勢が長生きしながら、「死」へと歩む社会には、想像以上に厳しい現実が待ち受けているのではないでしょうか。

 全く指摘の通りであろう。ただ長く生きるのが幸せとは限らない。私の父は、69歳のときに亡くなった。その前に4~5年の病苦の年月があった。母が父を介護していた。最晩年の父は脳卒中の後遺症から言葉を失ってただただ苦しんでいた。母は小さな身体で一人で父のオムツ替えを行っていた。父の死後も母は10年近くを一人で生きて81歳で亡くなった。晩年の6~7年は、認知症になっていたと思う。故郷を離れていた私が久しぶりに尋ねても少しも嬉しそうな顔をしなかった。
 かくして、私は父の齢を越えて母の齢を目標にして生きている。「人生100年」の現実に直面しているのである。これを喜ぶべきことにするために考える。件の「耕論」では、三人の有識者が意見を述べている
 医師でジャーナリストの富家 孝さんは、「ピンピンコロリは、まれ」と書いている。<死を「旅たち」と表現するのならば、旅行前のように、 病気や死のことを事前に話して考える必要があるでしょう。」真っ当な意見である。テレビをみていると毎日飽きもせずにもせずに「健康問題」「医療関係」のテーマが目白押しである。これは世相の反映でみんなが関心がるからだと知った。一歩踏み込んで、「死に方」特集がそのうち出てくるだろう。
 二人目は、アマチュア写真家の西本貴美子さんは、「迷惑かけなきゃ130歳まで」と書いている。西本さんは、72歳のときに息子さんが開いていた写真教室でカメラを始めたのだとう。日野原さんが言っていた「創めることは何歳からでもよい・・・」の自薦者なのだ。「私いくつになったっけ。91? 年は考えないようにしているの。」という。「年をとって一番嫌なのは、人に迷惑をかけること。自分で動けなくなって、食事やお風呂にも介助が必要になったら、介護してくれるひとにも迷惑をかあけるし、・・・・」。西本さん、ごく普通の日本人なんだな。「他人(ひと)さまに迷惑をかけるな」とは私の親の教訓でもあるのだが・・。最近、「人さまに迷惑をかけてもいいのではないか?」と、思い始めている。そのためには、「ひとささまに優しくなる必要がある」と痛感している。今からでは遅いかもしれないが、街なかで困っている人がら助けることを考えたい。
 三人めの論者は宗教学者山折哲雄さんだ。山折さんは、<「死の規制緩和」議論の時」という論旨を展開している。森鴎外の「高瀬舟」は、弟を安楽死させた兄を描いたのだと知った。100年も間の小説だ。<日本では長く、生と死が分かちがたく結びついているという考えがありました。日本語に、他の言語には訳しきれない「死生観」という言葉があるのはそのためです。そうした、死生観を反映した葬送の志方に「もがり」がります。・・・。>山折さんは、「死をもう一度定義しなおして・・・」「死の規制緩和」が必要だと述べている。昨年亡くなった「死ぬときくらい好きにさせてよ」という樹木希林さんの本がうれたのも希林さんの言葉多くの共感をえたからだと言っている。私は、山折さんの書くものが好きでよく読んでいる。昔の高僧が死期をさとると断食をして水分もとらず枯れるようにあのように行くことを何処かで紹介していた、本来、「老衰:というのはそう行くことだろう。「食いたくない。飲みたくない」となったら無理に胃ろうとか、点滴とかしないで自然に任せるのがいいのだと思う。その日まで、「人生100年」を目指して、ひとさまに優しく生きていきたい。