TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

文体を持つということ―「くっすん大黒」(町田 康)を読み始めて

 昨日は、「しらふで生きる」を読み終えた。著者の町田さんの本を一冊も読んでいないので『くっすん大黒』という初期のころの作品(小説)を借りてきて読み始めた。そこで感じた。文体が、「しらふで生きる」と同じなんだ。というより、初期の作品から町田さんは自分の文体を持っていた。1996年、処女小説『くっすん大黒』を発表、同作品で第百十六回芥川賞候補となる、と著者紹介に書いてあった。24年前の処女小説と同じ文体で今も書いているのだ。投げやりの喋りのような独白のような語りは軽い口調であるが何か味がある。これを「その人の文体」というのだと思う。町田さんは、1962年(昭和37年)大阪生まれで、高校時代から町田町蔵の名前でパンクロック歌手として音楽活動を始めた、と紹介履歴に書いてある。パンクロックっていうのも私は知らないのだが、若者の激しい音楽なんだろう。彼のこの文体はどこから獲得したのだろうか?「しらふで生きる」にも、中原中也の「汚れちまった悲しみに」のもじり文章がでていた。1992年には、詩集「供花(くうげ)」を刊行している、という。おそらく小説や詩や日本の古典なんどもたくさん読んでいた人なのだろう。そのような中から彼の独特な文体をか獲得したのだろう。