TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

私の「医人」たちの肖像―(129)生田房弘さんと私の温故知新―「歳月人を待たず:医学書院での40余年間を振り返って」 ~2013年3月1日

(129)生田房弘さんと私の温故知新―「歳月人を待たず:医学書院での40余年間を振り返って」~2013年3月1日

四十数年に及ぶ私の勤務時代が終わった。まさに「歳月人を待たず」の心境であった。

「学問の静かに雪の降るは好き」(中田瑞穂)

 私の印象に刻まれた「医人」の一人として生田房弘さんを想い起した。
■歳月人を待たず■
●2013年3月1日:

 「2月から城山三郎さんの“小説”になるんだって・・?」そんなメールが友人の一人から届いた。「毎日が日曜日」。かつてなりたかった境遇にはなかなか馴染めない。そんな折、最後にもう1回だけ「今週のトッピクス」への寄稿をとのご下命をいただいた。折角の機会なので医学書院での40余年を経時的に振り返ってみた。
□第1期:洋書部1971~1981□
 
1971年4月1日、洋書部販売2課に配属。特約店への卸部門で明倫堂松本市)と考古堂(新潟市)を担当した。3年後、田中角栄首相の一県一医大構想に対応し新設された販売3課に異動。福岡大・愛媛大・高知医大・聖マリアンナ医大・筑波大・自治医大埼玉医大・秋田大・旭川医大、ほかの医学部・医大新設の前後を、洋書納入業者の立場から見た。
□第2期:PR部「医学界新聞」1981~1993□
 10年後の1981年5月、PR部PR2課に移り、1981年~1993年まで医学界新聞を担当。この間に日本の医学の発展(CT次いでMRI登場も間もない頃)を文字通り目の当たりにした。入社20年後、1991年4月5~7日、京都市で開催された第23回日本医学会総会(岡本道雄会頭・井村裕夫準備委員長)を医学界新聞チームで取材し、医学界新聞(1945、1946号)で紹介した(「今週のトッピクス」No.2063「『第23回日本医学会総会』盛会裡に終了」,1991.5.10)。インターネット普及の10年ほど前のことで、当時の医学会総会にはその時代の医学・医療を総括する貴重な機会との雰囲気があった。業務を通して医学・医療関係者の謦咳に接する刺激的な日々。中国科学史研究で著名な英国の発生生化学者ジョゼフ・ニーダム (Joseph Needham) vs. 「近代医学の史的基盤(岩波書店刊)」 の川喜田愛郎 (千葉大名誉教授) 対談(1631号)に同席できたことは得難い経験だった。
□第3期:医学雑誌部(前期)1993~2001□
 1993年3月、改修のため本社が巣鴨のキタムラビルに仮移転するのと同時に、医学雑誌部(1編集室)へ異動。1993年3月から2001年の8月まで、医学雑誌部1編集室管轄7誌(「臨床整形外科」「総合リハビリテーション」「理学療法ジャーナル」「脳と神経」「神経研究の進歩」「脳神経外科」「呼吸と循環」)の発行に担当者を補佐する形で従事。社の医学雑誌の全てが編集委員体制を敷いていたので編集委員の先生方との協働が大切な実務の一つであった(「今週のトッピクス」No.2712「医学雑誌の編集委員について」、2004.7.29)。印象に残る編集委員の一人である生田房弘先生(元新潟大学脳研究センター長)に触れたい。新潟大学脳神経外科・中田瑞穂初代教授のもとで神経病理学を学ばれた生田先生は、恩師中田教授の病没に際し、遺言に従ってその脳を解剖し病巣を確認した。これは米国で恩師の脳外科医クッシング(Harvey W. Cushing)の脳を解剖した愛弟子の病理医ジンマーマン(Harry M. Zimmerman教授の顰みに倣ったものと思われる。生田先生のお仕事は病理学者らしく緻密であった。反面遅筆であった。ある号で掲載論文は揃ったが「あとがき」をなかなか脱稿していただけない。担当者に代わって督促のお電話を差し上げた。「代筆せよ」とのお言葉を承った(脳神経 46:8「編集後記」1994年8月号)。
□第4期:医学雑誌部(後期)2001~2011□
 医学雑誌部における後半の10年間は医学雑誌の転換期の荒波に棹さした。インターネットに代表される情報伝達手段の多様化と電子化、同時進行で顕現した発行(販売)部数の低迷への対応。さらに投稿論文の減少が医学雑誌の制作現場に追い打ちをかけた。医学書院の雑誌の電子化が、雑誌「脳と神経」のオンラインジャーナル化(当時の呼称)を嚆矢として1999年からスタートした(「ほすぴたる らいぶらりあん」Vol.29 No.1「出版社系国内雑誌のオンライン化の動向」,2004年1月)。この試みが医学界の関心を招き、同年に日本糖尿病学会雑誌「糖尿病」のオンライン化を社で受託した。以後、著作権譲渡手続き等々の整備期間を経て、社の全雑誌の電子ジャーナル「Medical Finder」商用運用が2009年から開始。2010年11月からは、看護系を含め医学書院の雑誌の在り方を全社的に検討するために発足した雑誌委員会を中心に喫緊の対策が練られている。
 最後に、医学雑誌への投稿論文減少について私見を述べたい。「不安 たんぱくでセーブ 東大チーム解明」というタイトルの朝日新聞夕刊コラム(2013年2月9日)に目を惹かれた。次の日本人のノーベル賞候補の一人といわれる東大H特認教授らが米国の科学誌セルリポーツ(Cell Reports)誌に最近発表の論文に関するものだ。“Publish or Perish”という米国由来の言葉がある。“発表せよ、しからずんば滅ぶべし”という意味。これは基礎医学分野における研究環境の厳しさを表している。一方、医学雑誌部で発行している雑誌の殆どは臨床系雑誌である。投稿論文のみで誌面構成した雑誌を原著系雑誌と称した。現在では投稿論文だけでは誌面構成ができず、特集・連載、コラムも含めた編集雑誌に多くは変容した。この傾向に医学雑誌の編集委員、担当者も危惧の念をもち対応してきた。「多額の研究費を与えられる研究の成果は、ひろく世界に知ってもらう必要があるから、大部分は国際誌に発表される。・・・(略)・・・臨床に限って言えば、このような傾向は好ましいこととは思えない。・・・(片山容一)」(脳神経外科 40:8、2012年8月10日)医学雑誌(掲載論文)の評価指標とされるインパクト・ファクターは引用回数を基にすることから、引用回数の低い「症例報告」の掲載は低く見られがちとなる。しかし、貴重な症例報告の蓄積が医学・医療の発展にとって重要であることは論を俟たない。“Publish in Japanese”(日本語論文が大切です)と声を大にしたら情緒的に過ぎるだろうか?今後も沢山の優れた日本語論文が社の医学雑誌に発表されることを祈念して筆を擱きます。(退職時に社内報に掲載した拙文を再掲)
(2013.3.1)(追記2020.4.26)
(私の「医人」たちの肖像―〔129〕生田房弘さんと私の温故知新―「歳月人を待たず:医学書院での40余年を振り返って」~2013年3月1日)