TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

私の「医人」たちの肖像―(124) 私の「医人」たちの肖像―養老孟司さんと「人生は本来 不要不急」

(124) 私の「医人」たちの肖像― 養老孟司さんと「人生は本来 不要不急

 

養老孟司さんとは残念ながら面識がない。講演は聞いたことがある。養老さんの書いた本はいろいろと読んだことがあるので知っている人のような気がする。2020年5月12日。朝日新聞に養老さんが、「人生は本来不要不急」の一文を寄稿していた。

  • 2020年5月12日:
    ■人生は本来不要不急■

新型コロナウイルス感染拡大防止のために不要不急の外出をしないように政府の対策で求められていた。コロナ禍の過ごし方について、有識者が連載で寄稿していたのを読んだ。少し引用する。
新型コロナウイルスの問題が生じ、関連する報道が盛んになって、まず印象に残った言葉は「不要不急」だった。妻と娘は外出制限で不要不急の脂肪がついたという。私は80歳を超え、当然だが公職はない。この年齢の人なら、非常事態であろうがなかろうが、家にこもって、あまり外には出ない。出る必要がない。今の私の人生自体が、思えば不要不急である。年寄りのひがみと言えばそれだけのことだが、相模原市の障害者施設で19人を殺害した犯人なら、そういう存在について、どう言うだろうか。この不要不急は、じつは若い時から私の悩みの一つだった。不要は不用に通じる。大学の医学部に入って臨床医になれば、その問題はない。医療がどれほど直接に役に立つか、コロナの状況を見ればわかる。医療崩壊といわれるほど病院の現場は大変で、不要不急どころの騒ぎではない。医療は世界的に現代の社会的必要の最たるものである。‣・・・>

養老さんは、このあと、「人生は本来不要不急」なのだから、コロナ禍にあっては、余り真面目に対応せずに、ときには「ダラダラ過ごしましょう」というようなことを言っていた。この「ダラダラ過ごす」が曲者で、私も含めて日本人の多くは勤勉で「ダラダラ」は不得意である。不得意というより、「ダラダラしている」と罪の意識すら感じてしまう始末である。養老さんは、件の文章のなかで、」たしか「われいかにして医師そして今の自由な(と思える)我になったか」というようなことを書いていたと思う。そういえば、養老孟司(ようろうたけし)の名前の裏には、生老病死(しょうろうびょうし)が隠されているので、名前からして医師の仕事があっているのだと何処かで書いていたのを読んだことがある。
 私もあまりあくせくせずに過ごしていきたいと思う。

養老さんは1937年、鎌倉で生まれた。鎌倉の開業医(小児科)を営む母親静江さんに育てられた。父親は養老さんが4歳のときに結核で亡くなっている。鎌倉の栄光学園中学・高校を経て東大医学部を卒業した。幼児の時から虫が好きな変わった子だったらしい。本人が何度も本でそう書いている。お母様の静江さんは90歳頃まで鎌倉で現役の意志であったと、これも本で読んだ。東大医学部を卒業して、東大病院で研修医となるが、医療事故を起こしかけて「つくづく臨床医にむいていない」と悟り、精神科医を目指そうとしたが抽選で外れて進めず、仕方なしに解剖学を専攻したのだという。

解剖学の大学院に進み、博士号をとり、助手・助教授を経て1981年(昭和56年)に解剖学(第二)講座の教授に就任した。この頃、私は本郷のI出版者で週刊医学界新聞の記者をしていた。その頃、解剖学では大阪大学の藤田尚男教授や新潟大学の藤田恒夫教授とは接点があった。しかし、何故か養老孟司先生とは仕事での関わりが生じなかった。そのうち、1995年(平成7年)に養老さんは定年を待たずに東京大学を57歳で辞めてしまった。
 「東大の解剖学教室の養老さんは面白い人らしい」という話を聞いたが、一度も原稿依頼もしないうちに養老さんは本郷からいなくなってしまった。少したって、養老さんが、『バカの壁』(新潮社)を出したのは2003年のことだった。本のタイトルは、編集者が付けたのだろうが、大ベストセラーとなった。早速に私も買って読んだが、なんのことはない「軽妙洒脱な人間論エッセイ集」である。そのあと、養老さんの本は対談本も含めてたくさん買って読んだ。そんなことで一面識もないが、シリーズ『私の「医人」たちの肖像』に、養老孟司さんをとりあげることにした。
(2020.5.12)

 

(私の「医人」たちの肖像―〔124〕 養老孟司さん人生は本来 不要不急」)