TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

「福岡伸一の動的平衡 コロナ禍でみえた本質」を読む

 福岡伸一動的平衡 コロナ禍でみえた本質」(朝日新聞 随時連載 2020年6月17日)を読んだ。今回のタイトルは「人もウイルスも制御できぬ自然」というものだ。福岡さんのこの連載が好きで楽しみにしている。今回も記憶と記録のために概要を纏めておきたい。

 <生命としての身体は、自分自身の所有物に見えて、決してこれらを自らの制御下に置くことは出来ない。私たちは、いつ生まれて、どこで病を得、どのように死ぬか、知ることも選り好みすることもできない。しかし、普段、都市の中にいる私たちはすっかり、そのことを忘れて、計画どおりに、規則正しく、効率よく,予定にしたがって、成果を上げ、どこまでも自らの意志で生きているように思いこんでいる。ここに本来の自然と、脳が作り出した自然の本質的な対立がある。前者をギリシャ語でいうピュシス、後者をロゴスと呼んでみたい。>
 福岡さんの最初のパラグラフの書き出しを引用した。最初の書き出しを読むと、全くその通りであると思う。私たちは意図して生まれてきたわけではない。生まれて成長して社会生活を営みながらも、いつななんどき、どのような病にかかり、また事故にあうかもしれない、明日をも知れない命である。それでも「神のみぞしる」と思いながらも、毎日、健康に気を付けながら生活し、老後の生活費を切り詰めたりしている。30数年の間も職場で仕事を同じくした同僚も先輩も次々と幽冥境を隔てている。

 <生命はピュシスの中にある。人間以外の生物はみな、約束も契約もせず、自由に、気まぐれに、ただ一回のまったき生を生き、ときが来れば去る。ピシュスとしての生命をロゴスで決定することはできない。人間の生命も同じはずである。それを悟ったホモ・サピエンス脳はどうしたか。・・・・ロゴスで制御できないものを恐れた。制御できないもの。それは、ピシュスの本体、つまり、生と死、性、生殖、病、老い、狂気・・・。これらを見て見ぬふりをした。あるいは隠蔽し、タブーに押し込めた。>
 福岡さんに解説してもらうと、「ああそうなのか」と目から鱗が落ちる。その通りだと思う。いつ死ぬかもわからぬから、明日をも知れぬ命が永遠に続くかのように毎日元気で生きているのである。

 <そんなピシュスの顕れを、不意打ちに近いかたちで、我々 の目前に見せてくれたのが、今回のウイルス禍でなかったか。ウイイルスは無から生じたものではなく、もとからずっとあったものだ。絶えず変化ししつつ生命体と生命体のあいだをあまねく行き来してきた。・・・・ウイルスも生命の環の一員であり、ピシュスを綾なすピースのひとつである。>
 こう、福岡さんに説明してもらうとよくわかる。結局は、なるようにしかならないのである。いままで幾つもの病になりながら、決定的な事故にも遭遇せずに73歳までいきてきたことが奇跡に近いともいえる。

 <ウイルスが伝えようとしていることはシンプルである。医療は結局、自ら助かる者を助けているということ、それでもなお、我々がその多様性を種の内部に包摂する限りにおいて、誰かがその生を次世代に届けうるということえある。>
 「天は自ら助くるものを助く」という諺がある。自分の思い通りにならないとしても、生きたいという希望をもって生きるしかないと、読み替えることができようか。福岡さんは、次のように続けている。

 <一方、新型コロナウイルスの方も、やがて新型ではなくなり、常在的な風邪ウイルス化してしまうだろう。宿主の側が免疫を書かうと、くするに連れ、ほどほどに宿主と均衡をとるウイルスだけが選択されて残るからだ。明日にでも、ワクチンや特効薬が開発され、ウイルスに打ち勝克ち、祝祭的な解放感に包まれるような未来が来ないことは明らかである。長い時間軸を持って、リスクを受容しつつウイルスとの動的平衡を目指すしかない。>
 その通りなんだと思う。上記の結論的な件を読むと、日々。新型コロナウイス患者の治療にあたったり、ワクチンや薬の開発や治験に携わっている専門家は、「基礎生物学者は偉そうな言を言って・・・」と怒るかもしれない。しかし、福岡さんの言うう通りであろう。多分、100年前のスペイン風邪も100年の年月をかけて、普通の風邪の一つになってきたのであろう。福岡さんは、さらに次のように言う。

 <ゆえに、私は、ウイルスを、AI1やデータサイエンスで、つまりもっと端的なロゴスによって、アンダー・コントロールにおこうとするすべての試みに反対する。・・・・かくいう本稿もロゴスで書かれているという限界をじかいしつつ、レジスタンス・イズ・フェータル(無駄な抵抗はやめよ)といおう。私たちはつねにピシュス完全包囲されいるのだ。>

 福岡さん、「無駄な抵抗はやめよ」はないぜよ。そこまで,言われると「呆然自失」してしまう。あれもこれも運命と甘受して今日を生きる。