中村屋に滞在していたエロシェンコのことについて私の思うこと

 1971年に札幌から東京へと転居してから10年後の1981年には本郷のロシア語塾「本郷クールス」でロシア語を主に会話を中心に学びなおしていた。このクールスでロシア語を教えていた伊集院俊隆さんが同時に「本郷ロシア語文化研究会」を主催していた。時折、テーマを決めて会員たちが持ち回りでテーマを決めて発表したりしていた。その頃、私は盲目のロシアの詩人であるエロシェンコに興味を抱いており幾つかの本を買い求めた。しかし生来の怠け者ということと、医学関係の学会研究会の取材と記事を書く方が面白く、買った本は積読で40年近くが経過してしまった。

 ■中村屋エロシェンコ
 今年になって、書棚から「相馬愛蔵・黒光著作集(全5巻)」を引っ張り出して読んでいる。第3巻「黙移」は相馬黒光による回顧録である。中身は黒光さんの若き女学校時代から、結婚して本郷の中村屋を買い取り、新宿に移転して事業を拡大していく話である。新宿の中村屋には様々な外国人や日本人の芸術家たちが居候していた。一番の大物は印度志士ボースであろう。ボースと黒光ささんの長女が結婚している。こではボースに触れられないが、『中村屋のボース』という本を中島岳志さん(北大教授から東工大教授に異動)が書いているので読んでみたい。ここではエロシェンコのことに触れたい。『黙移』のなかでは、「白系ロシアの人々」という項目の中で、「盲人エロシェンコ」という中村屋に居候時代のエロシェンコのことが書いてある。中村屋には、エロシェンコと同じころ、あるいは相前後して、もう一人のニンツアというロシア人が滞在していた。
 「そのうちに、盲人エロシェンコが印度から追放せられて再び日本に戻って来ました。ところが私の方では、この変人のニンツアが先客として来ていますし、エロシェンコは議論好きでエゴイスティックなことで有名であり、ニンツアは変人であるばかりでなく、暴言を平気で吐く非常識人ですから、どぷしても同室に住まわせるわけにはいきませ。それで紹介さえしないでおりました。」
 全く、歯に衣着せぬ書きっぷりである。二人のロシア人は居候でお世話になりながら言いたいことを言って自由に振舞っていたようだ。エロシェンコは、1914年頃に初来日して日本の盲学校で(後の筑波大学)学んだりした。1921人年に中村屋滞在のときに、社会主義者の会合への参加等を理由に国外退去となった。その頃のことが、黒光さんにより描かれている。エロシェンコは日本を追われた後、シベリアへ行き、上海、北京と諸所をめぐってロシアに帰っていった。
 「あの絹糸のように房々とした髪の毛、詩人的で空想家らしい彫刻のようなあのエロシェンコの姿、今やどこ彷徨っているのでありましょうか。バラライカを弾きながら、ロシアの民謡を歌ったエロシェンコは今でもなつかしい。中村つねさんの画いた詩人らしいエロシェンコと、鶴田五郎さんの画いた自我的で野性的なエロシェンコと、二つの肖像をならべてみる時、どちらも真実だと思います。」
 ここに引いた黒光さんの文章を読むと、エロシェンコが目の前に生きているように感じる。盲目の外国人がどのようにして日本にやってくることができたのだろうか?実は、エロシェンコは世界の共通語だといえる「エスペラント」を学んでいたのだ。そのことは、ハリコフスキー(山本直人訳)『盲目の詩人エロシェンコ』に書いてある。この本は読み始めたばかりである。それには、何故エロシェンコが盲目になってしまったか、初めてのロンドンへの旅、エスぺラントを学んで、印度、中国そして日本にやってきてからのことも書いてある。エロシェンコは、中国時代に魯迅と知り合いになった。魯迅の『あひるの喜劇』という短編小説にエロシェンコがでてくるのだという。『夜明け前の歌―盲目詩人エロシェンコの生涯』という高杉一郎さんの本が1982年に岩波書店から出ている。みすず書房から「エロシェンコ全集 全3巻」がでており、この本も買った記憶がある。これも見つけて読んでみたい。今日は、エロシェンコについて思いつくいたままに書き留めた。

 旅をできることは幸いである。そして、読む本があることと、本を読む自由な時間を与えられたことも幸いである。