TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

仙石健二著『六義園』のことを書いておく

 仙石健二君は私の北海道大学教養部一年六組の友人である。彼は、1976(昭和51)年8月15日に、心不全で急逝した。あれから44年が過ぎようとしている。彼の命日が8月15日とはしらなかった。彼がなくなったことは母親の仙石勝子さんからの手紙で知ったのだと思う。翌年になって、遺稿集を作りたいので寄稿して欲しいと依頼されて、私も一文を奏した。今回、書棚から遺稿集『六義園』をとり出して少し読んだ。奥付をみたら、限定100部出版の「本書は其23番」との記述を見つけた。いまの今まで知らなかった。そして、命日が8月15日だとしって、初めて違和感も覚えた。もしかしたら彼の好きだった太宰治のように彼は自ら「グッドバイ」したのかもしれない。その日から、44年が経過して残った僕は73歳まで生きてきたのだから、ここにこうして想い出の記を書くことはもう許されるだろう。
 1966年4月に北海道大学の文類に入学した。初期の2年間は教養部で第2外国語と一般教養科目を履修した。当時、北海道大学の文類は8クラスがあった。僕は第2外国語フランス語専攻の1年6組になった。クラスには女子が7名、男子が35名くらいいたと思う。学籍簿の順番は、「あいうえお」順であった。仙石健二君は「セ」なので、私の旧姓斎藤の「サ」の次であった。ところが入学式を終えて新学期の授業が始まっても、仙石健二君は姿を見せなかった。あとで分かったのは、大学に合格したはよいが、すっかり登校意欲をうしなって初めから「不登校」となっていたのだった。新学期開始後1カ月以上経過して、多分5月末くらいに漸く姿をみせたのだ。
 1966年5月の終わりくらいに、クラスの中で「同人誌を作ろう」という機運が澎湃としておこった。そうして、7~8名くらいの仲間が集い、「奔流」という名前の同人誌をつくることになった。それからが私たちの腐れ縁の物語が始まる。仙石君は太宰治が大好きな文学少年で、小説を書き始めていた。一方、私は梶井基次郎の『檸檬』を読む「詩を書く」少年だったのだ。こんかい、『六義園』を引っ張り出してわかったことは、彼との接触の日々は10年に満たなかったのだった。青春がほろ苦いものとしたら、苦い若気の日々であった。(今日はここまで、気が向いたら更新する)