TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

『「脳コワさん」支援ガイド(鈴木大介著)』を読み終えて思うこと

  『「脳コワさん」支援ガイド(鈴木大介著)』を読み終えた。上田敏さんの書評を読んで直ぐにアマゾンで注文した。定価は2200円だ。アメリカの会社「アマゾン・コム」が日本にやってきて本も扱うようになったのは1997年頃だったと思う。その頃、「再販制度」が崩れそうな状況になっていて、アマゾンが日本の制度を度外視して本の安売りをするのではないかと、出版界は戦々兢々としていた。今回、ネットで注文すると上記の本は、アマゾンでも定価販売であった。新刊に関しては、アマゾンも定価販売しているのだ。してみると「再販制度」は今も維持されているようだ。後日、調べてみたい。
 ともあれ、『「脳コワさん」支援ガイド』を読了した。予想にたがわず凄い本だ。私が、この本に惹かれたのは、私の家内が鈴木さんと同じく、2015年に「脳コワさん」になったからだ。トイレで崩れ落ちて、救急搬送された、ICU(救命救急センター)でついた初期の診断は、「クモ膜下出血」であった。10日後くらいに実施したカテーテル検査で、小脳出血と判明した。それも、先天性の脳動静脈瘻の破裂による出血というものだった。意識が戻ってからも呂律が回らず会話ができずノートとサインペンを持参して辛うじて意思疎通がとれた。急性期の脳外科」病棟2ヶ月、回復期リハビリテーション病院での1ケ月半の入院を経て自宅復帰をした。2015年10月27日に退院したので、もうすぐまる5年が経過する。今もほぼ毎日のようにリハビリのため、歩行訓練を兼ねた散歩を欠かさないでいる。このかん支える同居者として、私はどうだったのだろうかと反省しきりである。家内に言わせると、「まったく障害者の気持ちがわからない木偶の坊」というのが、私であるらしい。そのことが本をよんで分かった。

 <僕自身も、病前に多くの脳コワさん当事者に接していながら「ここまでつらいとは思っていなかった」と大反省しましたが、病後に高次脳機能障害の当事者とお会いしても、やっぱり第一印象では「この人に障害があるの?」と思った方も多くいました。実際お話してみれば、「おお、友よ!」となり、第一印象を申し訳なく思うことになるのです。>

 こう書いてあるのを読んで家内のこともわかる。「脳コワさん」は外見では分らないことがあるのだ。家内の場合は、入院から復帰後も介護保険でPTさんが週に1回家に来てくれて言語療法から徒手療法まで受けた。すぐに言葉も健常と同じくらいに回復した。元からよく喋るひとだったので、同居人の私はすぐに彼女が「脳コワさん」であることを全く忘れていた。そのために彼女としては、「なんと気の利かない木偶の坊の奴なんだ」と同居人の私に頼ることを諦めて、ひとりで頑張ってきたらしいのだ。そのために、日常生活動作(ADL)の回復が速かったのだろう。

 第4章「脳コワさんお世界」に「感情をコントロールできない」という項目がある。家内が脳コワさんになあってから、5年間の同居生活の中で、「感情のコントロール」ができないことが頻発する。「如何に私が気の利かない冷たい夫であるか、過去の30年以上にわたって耐えに耐えてきたか・・」を等々として喋るのである。これには事実も含まれるので私は甘受してきたのだが、一方で、「もしかしたら高次脳機能障害の症状の一つではないか」と思ってきた。以下に、本から引用する。

 <「この人たちはどうしてこんなに気持ちのコントロールが苦手なのだろうか」--これは、病前の取材活動で脳コワさんと接してきた僕がずっと感じていたことです。・・・・けれど、病前の僕が抱えていた「なぜ?」にはもうひとつありました。それは、「この人たちはどうして、過去に経験した苛立ちや怒りや哀しさと言った”不快でマイナスの感情”をいつまで引きずってしまい、その気分を切り替えっられないのだろう」という疑問です・・・・・・・長時間そばにいればこちらも気がふさぎますし、著書にも「なかなか助けようと思えない面倒なひとたち」のような表現を使ってしまったこともあります。やはり、大反省です。なぜなら僕自身も高次脳機能障害の当事者になってしばらくのあいだ、その「気の持ちよう」がまったく分からない人間になってしまったからです。病後の僕は、特定の他人に嫌なことをされたり傷つく言葉を言われたことについて、その出来事があってから何カ月にもわたって、一日何度も想い起してはひどく苦しい思いをするようになってしまいました。それは想像以上に苦しい日々だったのです。

 長い引用をしたが、後段の下線を引いた部分は、まさに家内の状況そのもであるのだと思う。こんなこともあった。私たちの子育てにあたって、三人の娘たちに各々バイオリン((長女と次女)、ピアノ(三女)を、長期間にわたってレッスンに通わせた。それは経済的にも時間的にも母親の負担には大きいものがあった。結果として、子供たちは音楽の専門家にはなれなかった。情操教育として授けたのだったが・・。家内の病後のある時、三女が「親の趣味で、(音楽を)習わされて・・・」と言ったことがある。この言葉に傷ついた家内は、まさにPTCDのように、数カ月どころか3年たっても、この言葉が気持ちを抉り感情を乱すのである。これはまさに「脳コワさん」の苦しみであるのだと思う。

 「脳コワさん」の当事者の鈴木大介さんは、「あとがき」でこう書いておられる。
 <それから、4年半がたち、七転八倒の後に今の僕は再び「楽」な状態にあります。それはもちろん、一定の機能を再獲得できたことに加え、自分が苦手なことをカバーする工夫を覚えることで不自由感や失敗が減ったためです。・・・・けれど、僕がいちばん楽に感じているのは、「もう回復しなくてもいいや」と思えるようになっているからです。・・・・僕がいま楽なのは、「諦めている」からです。>

 なるほど、「諦めているのか」と得心がいった。諦めるとは、「明らかに究める」の意味であると、何かのエッセイで五木寛之さんが書いていた。仏教の言葉であろう。「諦観」という言葉もある?「諦める」は一つの到達点であるのかもしれない。