TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

「山中湖 文学の森 三島由紀夫文学館」訪問しての記

「山中湖 文学の森 三島由紀夫文学館」を訪れた。2020年9月6日(日)の昼過ぎだ。文学の森を散策するために行ったら、折よく、「三島由紀夫の1970-時代との失踪’68~’70」という展示を行っていた。三島由紀夫が縦の会のメンバー4人と、東京市ヶ谷の防衛省の総監室を占拠して、バルコニーで決起をよびかける演説のあsと割腹自殺をしたのは、1970年11月25日の午後のことだった。翌日の新聞に、ごろっと頃方島の首の写真が写っていたのを覚えている。あの日、私は札幌で5年目の大学生活を送っていた。たしか卒論の仕上げの頃で、もしかしたら、東京の出版社への就職が決まった頃かも知れない。「ミシマが防衛省に突っ込んで腹を切ったぞ・・・」と、同じく札幌で司法試験浪人をしていた友人のRH君に電話連絡した。「へー・・・」と彼は笑った。あれから、50年の星霜が過ぎっていった。23歳の私は当然のように73歳になった。弁護士となったRH君は5年くらい前に一足先に逝った。

 益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐えて 今日の 初霜
 散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く 小夜嵐
  ―三島由紀夫

 今日にかけて かねて誓ひし 我が胸の 思ひを知るは 野分 のみかは
  ―森田必勝

 辞世の句である。この時に、三島由紀夫と森田必勝の両人が割腹自殺した。三島の介錯を森田が行ったが2度やって失敗した。代わって、古賀浩靖が介錯を完遂した。
 続いて森田必勝が三島の後をって割腹した。森田の介錯は古賀浩靖が一発で完遂した、とのことだ。

 この時、三島は、「・・・自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってのはないんだよ。諸君は永久にだね、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。・・・諸君は武士だろう。武士ならば自分を否定する憲法をどうして守るんだ。・・・」と、バルコニーから参集した自衛隊員たちに呼びかけた。
 三島の檄に対して、自衛隊員たちは、「聞こえねえぞ」「引っ込め」「下に降りてきてしゃべれ」「おまえなんかに何が解るんだ」「ばかやろう」と激しい怒号を飛ばした。

 三島の決起は、失敗に終わったのだ。あれから、50年何が変わったのだろうか?変わりはしない。しかし変化はあった。憲法改正を表にだした、安倍晋三内閣の退陣が目の間に迫っている。この春には、「三島由紀夫 VS 東大全共闘―50年目の真実」というドキュメンタリー映画が公開された。残念ながら、コロナウイルス感染拡大の影響で映画を観る機会を先送りしてしまった。
 「三島由紀夫の1970年」展を「みて、私自身の50年を振り返ってみた。私は「武士(益荒男)」にはなれなかった。地を這うようにして40余年を生きてきた。結局は、庶民(百姓)の血なのかもしれないと思う。

 ともあれ、三島由紀夫の『豊饒の海』㋾読み返してみよう。