TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

歩き方の工夫と「三歩会」を再開!

 合気道の稽古を始めて33年になる。師事しているSE師範がこんなことを言ったことがある。
 「私が合気道を生涯の仕事に選んだのは大(翁)先生の立ち姿の美しさに憧れたからです」
 合気道は植芝守平さんが創始した比較的新しい武道である。合気武術を修行してきた植芝さんが、「合気道」として近代に確立た。比較的新しい武道であるが、創始者の植芝守平さんには私はお目にかかたことは当然ない。私の師範のSEさんは78歳くらいだが、東京のG大学を卒業して最後の内弟子として合気道本部道場で合気道の稽古を続け合気道を仕事に選んだ方だ。合気道を稽古する者は、創始者の植芝守平さんを「大(翁)先生」と尊称している。守平さんは身長が1メートル50センチくらいの現代で言えば小柄なおひとだったらしい。その小柄な守平さんの立ち姿はとても美しかったというのだ。合気道では、立つこと、座ること、動くこと、すべからくが脱力してて無駄なおともなく美しくあらねばならない。このことは、あらゆる武道、いや武道だけでなく、舞踏、歌舞伎役者の動きとか、身体のをつかって表現するものには全て共通なのだと思う。
 ■毎日の散歩に思う■
 毎日の散歩の折に「美しい」歩きについて考える。無理のない歩き方はないものだろうか?そこで気がついたのが、身体の力をぬいて、右足をまえに出す折には体重を右に移動する、左足を出すときには体重を左に移動する。つまり後ろ足で地面を蹴って身体を捻りながら体を移動させるのではなく重心を自然に移動するだけにすることである。こうすることで重みを感ずるのは片足だけである。この動作は、上りの階段や坂道でも同様に意識を片足の重みだけを感ずるようにする。重い荷物を背負っていても同様な意識にする。重みを感ずるのは片足のみである。自重を全て持ち上げるのではなくて片足のみを持ち上げてから後で

重心を移動する。こうすることで身体の重さを意識ることなくて身体は先進をする。全てが一歩一歩の繰り返しである。
 ■「三歩会」の再開■
 
脳出血で倒れた連れ合いのリハビリテーションんのために、「三歩会」という里山歩きの会を続けている。「百里の道も一歩から・・・」のつもりで、せめて800歩くらいの散歩の継続を励行しようと、「三歩会」を友人たちの協力で始めた。「三歩会」も3月からは折からのコロナウイルスの影響で中断を余儀なくされてきた。かつ、8月も涼しい山岳地帯へも自粛要請のため行くことが今年はできなかった。この夏はひたすら蟄居の日々であった。満を持して、昨日は久しぶりの里山歩きを再開した。小田急線の本厚木駅からバスで25分で尼寺(にんじ)まで行った。そこから歩き始めて、白山神社、白山池、白山展望台、飯山観音と2時間半くらいを歩いてきた。途中、予想外に蛭の襲撃に遭遇した。革製の山靴を履いて厚手の靴下を履いていても昼は足首に何時の間にかはいってきて生き血を吸っている。かくして血まみれになりながらの「三歩会」を完遂した。