TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

飽食の時代と食えない子どもたちのことーノーベル平和賞「食料計画」受賞に寄せて

 少し前に日本は「飽食の時代」と言われていた。外食産業が花盛りであった。例えば夜の街と言われる新宿歌舞伎町の飲食店街の裏口には、手の付けられていないお惣菜や弁当が捨ててある。それを目当てにホームレスあるいはストリートで生活しているひとがテリトリーにして食材を手に入れていると聞いた。ところが最近では、「三度のご飯をまともに食べられない子どもたちが大勢いる」との話題が頻繁に新聞で取り上げられている。食べられない子どもたちは、アフリカ等の貧しいと言われる国のことかと思っていたら、この日本の都会での話である。
 このような折に、今年のノーベル平和賞が「世界食糧計画」に決まったと報じられた(10月10日)。概要はこうだ。
 <ノルウェーのノーベル委員会は10月9日、2020年のノーベル平和賞を、飢餓の現場に食料を届ける「国連世界食糧計画(WFP,本部ローマ)に授与すると発表した。紛争や自然災害に加え、新型コロナウイルスの感染拡大で飢餓の状況が厳しさを増すなかでの授賞となる。>

 国連世界食糧計画(WFP;World Food Programme)って何だ■
 WFPは飢餓のない世界を目指して活動する国連の食料支援機関で、1961年に設立された。緊急時に命を救い、暮らしを守ることや、その後の暮らしの再建、慢性的な飢餓や栄養不足を減らすことなどを目標とする。世界の9人に一人が十分な食料を得られないと言われるなかで、2019年には88の国・地域で約9700万人に支援を実施した。1万7千人以上の職員の多くは途上国の現場で、直接の支援にあたる。

外務省などによると2018年の全体の予算約73億ドルに対し、日本の政府拠出額は約1億3千万ドル、民間からの寄付は約1200万ドルだった。46人の日本人職員(専門職以上)がつとめている。
 (以上の記事は、2020年10月10日、朝日新聞朝刊、より引いた)
 

<コメント>食えない子どもたちの存在は実につらい。こういう私G爺は73年前に群馬の片舎中で生まれ育った。貧しい家だった。ひどい飢餓の経験はないが、夕方お腹がすくと残った麦飯を握って味噌を付けて食べたり、薩摩芋をスライスしてフライパンで焼いて食べた。小学校時代のお弁当は、卵一つにメリケン粉を混ぜて嵩を増して四等分にして四人兄弟のお弁当にいれた。それに昆布の佃煮と紅ショウガと沢庵がお弁当のおかずだった。いわゆるタンパク質と言われるものは、鰯の丸干し鰊の煮つけくらいしか食べたことがなかった。少し成長して高校生の時代に、高崎ハムという会社がモツ煮パックを販売したので、それを買って食べるのが唯一の蛋白質原であった。そんな工合で、成長期の私の身体は栄養素が不足していたのであろう。18歳~19歳にかけて、慢性肝炎に罹患した。多分A型肝炎に罹患したのであろう。その時には大学受験に失敗して浪人生活をしていた。「四つ足をたべてはいけない」と、かかりつけ内科医師に厳しく言われた。もしかしたら、蛋白質を分解する酵素(消化液)が私には不足していたのかもしれない。その時から8年後に、就職て三年目の27歳の折に急性膵炎になった。この時は空手部の同期会で飲み過ぎたために急性アルコール性膵炎になったのだ思う。この折に、2週間入院して4日間くらい絶食と点滴をして急場を乗り越えた。この折はかなり危険な状態であったのかもしれない。その時には結婚をしていて、既に長女が生まれていたのだから、連れい合いと義父母にはどれだけ心配と迷惑をかけたのかは計り知れない。この時から23年後の50歳時に、C型肝炎ウイルスによる慢性肝炎と判明した。爾来、23年間に及ぶHCVを抱えた私の後半生については「私のC型ウイルス肝炎物語」に詳述した。
 WFPのノーベル賞の話題から、自らの食料事情に思いをはせた。私は「食痴」で「味盲」である。これはやはり哀しいことだ。