TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

私の「医人」たちの肖像― (104)塩川優一先生と『軍医のビルマ戦線日記抄』~1992年

(104)私の「医人」たちの肖像― 塩川優一先生と『軍医のビルマ戦線日記抄』 ~1992年

 

 1980年代に私が日本のエイズ(AIDS ; Acquired Immunodeficiency Syndrome)の動向を取材している頃に、厚生省の「エイズサーベイランス委員会」の委員長をしていたのが塩川優一先生(当時、順天堂大学名誉教授)だった。もともと塩川先生はリウマチ学が専門の内科医で、順大教授のあと日本リウマチ財団理事長等を歴任していた

雑誌「医学のあゆみ」の記事より

●1992(平成4)年:

 先日から、秋元寿恵夫著『医の倫理を問う―731部隊の経験から』を読み始めた。その中で興味深い件をみつけた。秋元さんは太平洋戦争から生きて帰国し復帰した東大血清学教室(緒方富雄教授)では無給副主であったので生活に困窮していた。
 「このことについては緒方先生も大変心配して下さり、そのおかげでわたくしはちょうどその頃、先生のご発案で昭和21年(1946)3月から創刊される手筈になっていた『医学のあゆみ』に、その頃寄稿者としてすでに決まっていた柴田承二さんと、三浦義彰さんとのお二人と協力して、毎月何編かの外国文献の翻訳原稿をかくことによって、僅かながら稿料がもらえるようになった。・・・・さらに、七月以降は『日本医師会雑誌』の編集者として勤務するようになったというふうに、いつの間にやらわたくしの生活は文筆稼業へと移りかわっていったのである。」

雑誌『医学のあゆみ』が、1946年にかの著名な東大血清学教室の緒方富雄さによって創刊されたことは、今まで知らなかった。そして、先日から整理していた古い資料の中から1992年の『日本医事新報』No.3558号(平成4年7月4日)掲載の「Medical Essays」)欄に塩川優一「軍医のビルマ戦線日記抄」という連載を見つけた。

「軍医のビルマ戦線日記抄」■

件の連載エッセイは六回に渡っていた。この連載を読んで興味をもった私は、記事を切り抜いてファイルに入れておいたのだ。読み返してみた。それは以下のようなものだった。

Ⅰ 軍医のビルマ戦線日記抄(1)―北ビルマの戦い、Ⅱ 軍医のビルマ戦線日記抄(1)―北ビルマの戦い(2)―フーコンの戦い(前)、Ⅲ 軍医のビルマ戦線日記抄(1)―北ビルマの戦い(3)―フーコンの戦い(後)、Ⅳ 軍医のビルマ戦線日記抄(4)―南十字星をめざして―、Ⅴ 軍医のビルマ戦線日記抄(5)―サイゴンの雨―、Ⅵ 軍医のビルマ戦線日記抄(6-完)―サイゴンに別れ―。
 連載エッセイの第1回の「はじめ」にで、塩川さんはこのように書いていた。

「私は陸軍医学校卒業の後、軍医中尉としてビルマに赴任することになった。私は戦地にいる間、塹壕の中で、また敵の弾丸が飛び交う中で、軍医の業務の傍ら毎日日記を記した。そして、幸いにして、そのかなりの部分を日本に持ち帰ることができた。最近になって私は、この古ぼけた日記をとり出し、整理を始めた。・・・・・・これは、当時の日記の抄録であり、虚飾も誇張もないつもりである。なお、もし機会があれば、この日記の原文全文を印刷して残したいと思っている。」

今回、上記の「戦線日記抄」を再読した。戦線のさなかにもかかわらず、淡々とした記述の中に悲壮感がほとんどないのに驚く。塩川さんは、医師として、将校として感情を排して記録を残したのだろう。先の秋元さんの体験記録も、塩川さんの日記にせよ、戦争をしらない私たちは襟を正して読み継いでいくのが責務といえるだろう。

今回のブログを書くにあたり、検索すると、塩川優一著『菊平団軍医の壮絶な記録―定本菊兵団軍医のビルマ日記』(日本評論社)が2002年に刊行されているのを知った。上記の連載(抄)を経て、塩川さんの日記はまとめて出版されていたのだ。
(2020.11.8)


私の「医人」たちの肖像― 〔104〕 塩川優一先生と『軍医のビルマ戦線日記抄』 ~1992年)