TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

『風よあらしよ』(集英社)を読んでみたい

 村山由佳さんの新しい本『風よあらしよ』を読んでみたい。これは、関東大震災後の混乱のさ中に、アナーキスト大杉栄とと共に甘粕大尉に虐殺された伊藤野枝の生涯を描いた小説である。この夏に、『盲目の詩人エロシェンコ』(ハリコフスキー)を読んでいて、エロシェンコがジャーナリストの神近市子に恋をしていたことの件を知った。ところが、エロシェンコの恋した神近市子は大杉栄を経済的に援助していた。というより大杉は神近の紐になっていた。その大杉には内妻がおり、そこに伊東野枝が大杉にほれ込んで四角関係が生じていたのである。
 伊藤野枝は女性解放運動家なんだという。時代は1920年代だから恐ろしく開かれた女性だったのであろう。伊藤野枝の履歴をしらべるとこうである。1866年福岡県糸島郡今宿村に7人兄妹の3番目の長女として生まれた。1909年に高等小学校を卒業して約9ヵ月、郵便局に勤務して家計を助けながら雑誌に詩や短歌を投稿していた。叔母(母の妹)が東京から帰省した折に東京の空気をしり憧れる。叔母を頼り東京に出て、猛勉強して、上野高女(上野学園)に1年飛び級で4年に編入合格した。在学中に英語教師の辻潤(のちのアナーキスト)と知り合う。1912年に上野高女を卒業して帰郷する。帰郷すると親が勝手に婚約を決めていた。仕方なしに結婚するが、8日目に出奔して、上京して在学中に想いをよせていた辻潤と同棲して、1912年4月に辻と結婚生活に入った。10月頃から、野枝は平塚らいてうらの女性文学集団の青鞜社に通い始める。そして、当時の錚錚たる「新しい女たち」たる与謝野晶子、小金井貴美子、岡本かの子、神近市子らと親交を深める。機関誌『青鞜』に詩などの作品を次々と発表する。1915年に、度々の発禁処分を受けるなどの経営難におちていた雑誌『青鞜』の編集・発行を平塚から受け継ぐ。誌面を「無主義、無規則、無方針」をモットーに、一般女性にも誌面を解放した。この間に、辻潤との間に、長男・一(まこと)、次男・流二(りゅうじ)を産む。
 ここまでも十分に凄い履歴なのだが、この先がすごい。1916年4月、辻潤と二人の子どもを捨てる。翌月からアナキズム運動の中心人物であった大杉と文通を開始して、秋には同棲を始めた。大杉には内妻の堀保子がいて、さらに東京日日新聞の記者の神近市子という愛人もいた。大杉の「自由恋愛論」は批判されていた。ここに野枝がはいって四各関係となったのだ。11月に葉山の日陰茶屋という旅館で神近が大杉を刺して、「日陰茶屋事件」が起こった。大杉は内妻の保子と離別、市子は大杉に対する殺人未遂で入獄した。「多角関係」に勝利した野枝は、9月に長女を出産した。このあと大杉との間に合計5人の子どもを産んだ。「甘粕事件」は1923年9月16日に起きた。ということは、大杉とくらすようになって7年間に5人の子どもを産んでいる。これでは産む機械で、女性の解放とは程遠かったのではないかと思える。

 さて、今回のブログは、「伊藤野枝の真剣な闘い 心を重ねて」という、朝日新聞の記事(2020年11月18日)に触発された。以下のような記述があった。
 「こどものおしめを縁側で振って汚物を落としてまたあてがい、周囲を驚かせた。辻を捨て、子をすててまで大杉と夫婦になったという悪評から、いつしか平塚とさえ、たもとを分かつ。…」(この記事は、興野優平さん)
 紙おむつなんかない時代の子育てはさぞかし大変だったろう。まともに育てたのだろうか? 両親が殺された後、5人の子どもたちはどうしたのだろうか?凡夫の私はそんなことが心配になる。ともあれ、『風よあらしよ」を読んでみたい。