TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

「三島由紀夫没後50年 最新論考で迫る」を読んで思うこと他

 三島由紀夫さんが市ヶ谷の陸上自衛隊本部で自決したのは、1970年11月25日の午後だった。このとき私は23歳だった。あれから50年が経過して、「三島事件」に関する新聞や雑誌の記事が頻出している。昨日(2020年11月22日)の朝日新聞朝刊にも出ていた。記憶と記録のためにその概要をまとめておく。

 1つ目は、「没後50年 最新論考で迫る」という、太田啓之さん(記者)のまとめた記事だ。先日、紹介した文藝春秋(12月号)掲載の石原慎太郎さんの論考とは違って、有識者の論考を紹介する形で纏めている。
 精神科医精神病理学者の内海健さん(65歳)が今年の6月に、『金閣を焼かなければならぬ』を出版したのだという。内海さんは四国出身の私の知人の弟さんではないかと推測していたが、内海健さんは東京出身であるので違うらしい。内海さんは、斎藤 環さん(筑波大)と共に、その活動の領域が私の気になる精神科医である。
 <三島の壮麗な文章は多くの読者を魅了する一方で、登場人物の描写は時として深みを欠き、精密なCGで造形されたかのような無機質感が漂う。そんな作風を、「自閉した内的世界の反映とみて、代表作『金閣寺』(1956年)のモデルと「なった金閣寺放火犯人と、三島を対比しつつ論じた・・・・。>
 <内海さんによれば、三島を生涯苦しめ続けたのは、現実・他社と自分自身との「離隔」「実は自分は存在していないのではないか」という生きている実感の薄さだった。>
 <今年(2020年)10月に『三島由紀夫 なぜ、死んでみせねばならなかったのか』を上梓した評論家の浜崎洋介さん(42歳)は、三島の自伝的評論『太陽と鉄』をこう読み解く。「三島は言葉とは異なる『肉体』という回路から、生のリアリティーを獲得しようと試みたが、『筋肉は鉄を離れたとき絶対の孤独に陥り』『あたかも筋肉が存在しなかったかの如く感じられた』と書いている。>
 <今年10月に評伝『暴流の人三島由紀夫』を世に問うた井上隆史・白百合女子大教授(57)は、「三島の内面ではセクシャリティーと死の欲望、暴力が分かちがたく結びついていた。セバスチャンはその象徴」と話す。>

 太田啓之さんの論考には、「肉体の存在証明 求めた栄光ある最後」というセンセーショナルと思える中見出しがついている。<三島が最も恐れたのは、太宰の情死のような「退廃的な死」であり、そうではなく「栄光ある死」とするには、死への戦いを命じる「外部からの声」による権威ずけが必要だったという。>

 2つめは、「親交を重ねた逗子在住の詩人・高橋睦郎さん」という見出しの記事だ。同じ日の新聞・神奈川版に載っていた。高橋睦郎さんといえば、昭和40年代に異色の詩人として活躍していた。孤高の詩人鷲巣繁男さんが高橋睦郎さんを高く評価していたと思う。私も、高橋さんの「十二の遠景」を読んだことがある。最近、高橋睦郎さんの名前を余りみないと思っていたら、逗子で健在なのだ(82歳)。海辺にいま棲んでいる高橋さんは、「彼がすきだった海を軸に三島像を立ち上げてみるのも意味深いはずだ。高橋さんはそう考えている。」高橋さんが、短編だが好きな海の作品として挙げるのが、『真夏の死』(1952年)だという。海が描かれた神奈川とかかわりのある三島の作品としては、『岬にての物語』(1946年)、『真夏の死』(1952年)、『海と夕焼』(1955年)、『午後の曳航』(1963年)がある。こちらの、記事は鈴木淑子さんの署名記事だ。

 ■弟の死 意味問い続けた―三島事件 学生長遺族の50年■
 
三島事件」の遺族は、この半世紀をどういきてきたのか。事件で三島と共に自決した森田必勝氏(25歳)の実兄、森田治さん(91歳)に話を聞いて書いた記事が朝日新聞夕刊(2020年10月31日)に出ていたのを読んだ。盾の会2代目学生長だった森田必勝さんは、三島と共に自決した。三島の割腹の後の後の介錯を森田さんが務めた。そのあと、三島の隣で森田さんも割腹し、古賀が介錯をした。森田さんは殉死した。これが三島事件の概要だ。森田必勝さんはその時25歳だった。私は23歳と11カ月だったので彼は私より1歳だけ年長だ。1966年に早稲田大学に入学している。私は1966年に北海道大学に入学したので、学生時代はまったく同じである。1968年に友人のNH君が早稲田の商学部に入学した。1968年の夏頃にに早大生のNH君と一緒に、早稲田の大講堂に潜って講義を聞いたことがあった。早稲田の露文を受験したかったが受験料が5000円かかるので諦めた。当時、国立大の受験料は1000円だったので5分の一で済んだからだ。私のことより森田さんのお兄さんの想い出に触れてみたい。
<必勝くんが亡くなった」第一報は、治さんが勤めていた中学校にかかってきた電話だった。相手は必勝氏の友人。弟は三島と行動を共にし、テレビにも映っていたと言われた。>
 必勝さんは、5人兄弟の末っ子だった。生後2年半で父が、少し後で母がともに病死した。16歳年上の治さんが親代わりを務めたのだという。必勝氏は早稲田に入学。戦後右翼の親米反共路線とは一線を画し、戦勝国による世界秩序の打倒を掲げた民族派運動に加わった。
 <事件については「森田は三島に殉じた」と言った見方が一般的だ。治さんはそんな見立てにずっと反論してきた。尊敬する三島に強い影響をうけただろうが、自ら決断して行動したと信じたい、と治さんは言っている。>
 <治さんは、1975年以来、三重県職員組合に担がれる形で、三重県議を6期務めた。非武装中立を持論とし、「憲法9条の理念を世界に発信しようと今も思っていますよ」と話す。>
 <「弟は右翼で、あんたは左翼か」。そんなことを言うひともいたが、見当外れだと笑う。「右、左ではない。弟も日本、国民のために行動するというのが基本にあった。それは私の人生観と相通じると思うんですよ。>

 上記の記事は、朝日新聞編集委員の藤生明さんの署名記事だ。概要を引用し紹介した。藤生さんは、「9条堅持訴える兄―日本のために行動 相通じる」という「見出し」でまとめている。「この兄してあの弟ありか」という記事のまとめ方だ。


<コメント> 三島由紀夫さんについての論考が沢山あること知った。さらに、昨日テレビでも、美輪明宏さんらが出演して「三島由紀夫 没後50年」の特集を放映していた。肉体改造をはじめる前の三島さんは、本当に貧弱な身体をしていた。そして、ボデービルで筋肉ムキムキになるのだが、実は武道家に言わせれば、あのような固い筋肉は使い物にならないことを誰もが知っている。石原慎太郎は、三島さんの死を「滑稽な死」と退けている。私はそこまで言えないが「哀しい死」だと思う。今回、「三島事件」のことを調べていて、三島の「遺書」が残されているのを知った。盾の会の決起に参加させなかったメンバー宛に、「諸君はこれから、就職もし、結婚もして生きよ」という趣旨を残している。「三島事件」から50年を、私たち森田必勝さんの同世代は生き延びてきた。それはそれで「なにおかいわんや」の日々である。