「短歌の作り方」での第3章「自己表現の道」まで読み進めた。木俣さんの文章はとてもわかりやすい。第3章の冒頭にこうある。
「日々の生活の中における喜怒哀楽は何らかの意味において排出を求めないではいられなくなるということをわれわれの誰しもがけいけんしていることである。」
そういうことなのか、一日の仕事が終わって、酒をのんだり、家に帰って愚痴をこぼしたりは人間の常ということになる。
「もともと人間というものは誰でも自己の内容というものを何かの形によって表現したいという欲求を常に持っているものでらる。」
このとおりだとしても、表現手段をもたない人はどうするのだろうか?そういう人は、ジョギングをして汗をかいたり、大酒呑んでわめいたりするよりほかないのだろう。
「短歌は57577という5句三十一音の短い形式であるが、刹那的な感情の高揚を抒べるのには日本人にとってもっとも適切な形式であるといってよい。端的に言うならば、短歌は純粋な抒情詩であるということになるのである。」
そいうことなのか。そうであるとして全ての人が詠めるわけではないが、古来というか1300年も前の万葉集の歌は短歌である。
「(万葉集)を読めば、その時代の人々が、短歌という形式の中に、人間としての生活のすがたを、人間感情の起伏というものを、いきいきとありのままに刻みつきけていることが知られるのである。」
なるほど、木俣さんは短歌というものを抒情詩の最たるものといっている。叙事詩、叙景詩というものもあるが、木俣さんによれば「一切をあげて抒情の詩であると解釈すればよい」となる。木俣さんは、それを「人間の歌」といっている。
「防人の妻などとわらいつつ自衛隊員に嫁ぎゆきたり園児らを置きて」
幼稚園の保母さんをしていた若い女性は上のような歌を残している。木俣さんは、「人間の歌」の一つとしてこの歌を紹介している。
以上をまとめると、短歌とは自己を表現する「人間の歌」である。それは、感情表現としてすべからく「抒情詩」ということになる。