TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

『天馬塚』樋口覚歌集を読む

 先日から木俣修さんの「短歌の作り方」を読み継いでいる。この本を読みながら、すぐ近くに歌人がいたことを想い出した。口を糊していた医学系出版社の人事異動で医学業界新聞である週刊医学界新聞の担当に配属されたのは1981年6月であった。この職場の一つ年下の先輩が樋口覚さんであった。彼は「医学界新聞」の記者をしながら、一方で歌人であり文芸評論をやっていた。寧ろ文芸評論家としての履歴のほうが彼の本道であったのだろう。
 『天馬塚』樋口覚歌集を、書棚から引っ張り出した。発行日は昭和63年7月10日とある。昭和63年は西暦で1988年である。私は1981年6月~1985年4月頃まで、彼と同じ職場で働いた。1983年の国際免疫学会議(京都国際会議場で開催)の取材に一緒にいったのを鮮明に覚えている。京都国際会議場の裏山に仕掛け花火で、”Immunology for ever"(免疫学は永遠である)の仕掛け花火が掲げられた。その時に世界中を震撼させた当時は死の病と恐れられたエイズが登場した。
 『天馬塚』は、樋口さんお第二歌集である。1978年~1987年まで複数の雑誌に初出された歌に、書下ろしの十数編をまとめて一冊に上梓したものである。

 「老いながらなほ咲かむとす梅の木のみじろぎもせぬ梢の憂いよ」
 まだ、若い樋口さんは、こんな老成した歌を詠んでいた。

 「みづからを抗原とせぬたくらみを「免疫寛容」と人は教へき」
 「今世紀週末に突如符合せるAIDSは「他己」に限りなく「寛容」
 上記の2種は「免疫学」を学びながら樋口さんは歌ったのだろう。国際免疫学会を取材したおりにも、当然ながら、樋口さんは自らの「歌つくり」のことは何も言わなかった。
 ちなみに、この時、国際免疫学会議の事務局長(主催者)は、当時東京大学医学部教授(免疫学)の多田富雄先生であった。多田さんが、こ10数年後に自らが障害者となったことは既に触れた。多田さんは、「能」を書くひとであり、詩人でもあった。思えば、「免疫学」とは優れて誌的な医学領域である。新型コロナウイルスもまた極めて変異しやすく免疫泣かせの病でもあるのだ。

(更新予定)