TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

「密」へのノスタルジー 捨てて生きる(五木寛之さん)」の記事を読んで思うこと

 『大河の一滴』を読み終えた。この本(幻冬舎文庫)は、1998年4月に初出の本だからもう20年以上前に出た本だ。「オウム真理教」や、ニューヨークの貿易センタービルに飛行機が激突したころだ。いま読んでも感ずるところは多かった。「人はみな大河の一滴」に加えて、「滄浪の水が濁るとき」「反常識のすすめ」というエッセイ集、さらに「ラジオ深夜一夜物語」「応仁の乱からのメッセージ」も入れて、一冊にまとめた本だ。
 今回読んだ「ラジオ深夜一夜物語」の中から印象に残ったところをまとめておきたい。これはタイトルのように、「ラジオで五木さんが語った」ことを原稿に起こしたものらしい。そのために、平な話し言葉でかかれている。この項目で、「いつかおとずれてくる本当のさびしさ」という箇所が深く印象に残った。ここでは、親鸞とその弟子唯円の対話を紹介していた。少し長い引用をする。
 <「お師匠さま、私はこのところ、なんだかさびしい気持ちがしてならないのです。ときどきぼんやりいたします。こうして道を歩いている人を眺めていても、なんとなく心がさびしくなってきて涙がこぼれたりする。こんなことでいいのでしょうか。」・・・・それに対して、たしか親鸞はこう答えるのです。「それでいいのだよ。唯円。それでいいのだよ。さびしいときには、さびしがるがよい。それしか仕方がないのだ。」・・・・・>
 この件はもっともっと続く。悟りを得たはずの親鸞とても人生はさびしいものだという。「さびしさこそは運命がおまえを育てようとしているのだから、・・」と諄々と親鸞は、弟子の唯円に語っているのである。何故この件に興味を惹かれたというと、齢73歳にして、むしろ社会で忙殺されていた頃とはちがう「ひととしてのさびしさ」を私は感じるからである。
 「市場原理と自己責任という美しい幻想に飾られたきょうの世界は、ひと皮むけば人間の草刈り場にすぎない。私たちは最悪の時代を迎えようとしているのだ。資本主義という巨大な恐竜が、いまのたうちまわって断末魔のあがきをはじめようとしている。そのあがきは、ひょっとして二十一世紀中つづくかもしれない。つまり、私たちは、そんな地獄に一生を托すことになるのである。」
 文庫版の「大河の一滴」のあとがきにかえてから引用した。五木さんが上の文章を書いてから二十二経過した二十一世紀の現在、私たちはまさに資本主義の断末魔のなかで「コロナ禍」に喘いでいるのである。

 ■夜の世界には もどれないから■
 
「夜の世界には 戻れないからー「密」へのノスタルジー 捨てて生きる」という見出しの文章を、五木さんが朝日新聞朝刊(12月25日)に寄稿していた。五木さんは、1932年生まれだから、1947年生まれの私より15歳年長であるから、88歳か89歳であろう。それなのに髪は白くはなっているがふさふさしている。幾つかのエッセイで繰り返し、医者嫌いで健康診断は30数年受けたことがなのでレントゲン被爆もしていない。歯医者だけは仕方がないので何度か掛かっている。風呂にはいってもシャンプーとかは一切使わないと書いていた。それにして、あの(写真をよくみる)ダンディーで格好がよいのはなぜか。
 <この原稿を、冬日のさす窓際の机にむかて書いている。これは私にとって異常なことである。なにしろ新人作家として1960年代に仕事をはじめて以来、昼間に原稿を書いたことなどほとんどなかったからだ。>
 上記の寄稿の冒頭にこう書いてある。上の文章を読んで、私はハタと気がついた。五木さんは酒を飲まない人なのではないか?夜はお酒をゆっくりと飲みたいから、銀座のバーにも行きたいから、執筆は午前中から昼過ぎまでに仕上げる、という作家もいるようだ。私が好きな伊集院静さんなどは、飲む時は夕方から朝まで飲むのではないだろうか?それに比べると五木さんは、夜中は仕事一筋なのである。
 <いつもベッドに入るのが朝の八時ころである。それからしばらく、できるだけ面白くない本を読む。読んでいて眠くなるような難しい本がいい。>
 これでは、ゆっくり酒を楽しむ暇はないだろう。これが五木さんの健康の秘訣に違いない。
 <そんな生活がずっと一生続くのだろうと思っていた。ところが今年の春ごろから、思いがけない異変がおきたのだ。ちょうど新型コロナが流行しはじめた頃から、なぜか生活のリズムが逆転しまったのである。・・・・・・・これは、一体、どういうことだろう。なにか深刻な病気にでもなったのか、それともお迎えがちかいのだろうかと本気で心配した。・・・・>
 何のことはない。五木さんにも外圧で「働き方改革」が起きてしまったのである。高度成長期以来、駅近のコンビには24時間営業が当たり前、盛り場の繁華街は朝の3時、4時まで営業しいるのが当たり前だった、つい最近まで。それがコロナウイルス感染拡大のお陰で(敢えてお陰でという)、夜の街は少しずつ早じまいになってきた。さらに、五木さんはこう書いている。
 <新型コロナの流行以来、「三密」という言葉が忌むべきものとして喧伝されてきた。しかし、「三密」とは、仏教用語として長く大事にされてきた。もともと密教系の言葉だが、それだけにとどまらず、「身・口・意」の三つの世界は、「からだ」と「ことば」と「こころ」と読みかえてもいいだろう。>
 もう「密」には戻れないだろうか。コムュニケーションには対面して相手の眼を見て話せと言われてきた。 Face to Faceという英語は、そういうことだろう。それがコロナウイルス登場してから、対面ではなく斜め向かいとなる。
 <私はこれまで、昼間は行動の世界、夜は想像力の世界、とと勝手に決めていた。・しかしそれも変わる。・・・・「密」な世界へのノスタルジャ―を捨てて、アサッテの世界を思いつつ昼の時間を生きている。>
 五木さんのいう「アサッテの世界」」って何なのだ。五木さんのファンとしては、昼間にも想像力を働かせて「新しいアサッテ」のことを書いて欲しい。類まれな健康に恵まれた方だからそれができるはずだ。まちがっても、お酒なんか夜に飲んで欲しくない。