TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

穂村弘『短歌の友人』を読んでみたくなった

『大人にはわからない―日本文学史』(高橋源一郎)を読み進めている。五日目<「日本文学戦争」戦後秘話>まできた。ここで、高橋さんは、穂村さんの『短歌の友人』を紹介している。この本のなかで、「短歌の歴史、この国の、短歌という言語芸術の歴史と、その総括をやりとげています。」と高橋さんがかいている。そして、短歌の歴史的発展を簡単に説明している。近代短歌は、斎藤茂吉に代表される「『私』の獲得」から出発した。近代短歌が成立するまでは、短歌は「私」を歌うものではなかった。近代短歌が歌った「私」とは、かけがえのない生命、一度しかない生命の所有者としての「私」だったのだ。やがて、明治初期から昭和にかけての戦争を経て、最大にして最高の価値を持つ「私」が戦争を起こし、この世界に混迷をもたらしたのではないか。そうした「『私』への疑い」が、近代半ば以降の短歌のモードを蹴っていずけた。穂村弘は、その代表として塚本邦雄を上げている。
 日本脱出したし 皇帝ペンギン皇帝ペンギン飼育係も(塚本邦雄
 マッチ擦るつかのまの海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや(寺山修司
 高橋さんは解説する。<これらの短歌の背景にあるのは、おそらく、戦後という現実への怒りです。そして、ここには、確実で信頼するべき「私」は出てきません。>この近代中期のスタイル、モードを、穂村弘は「言葉のモノ化」と呼んでいる。このような、「言葉をモノ化する:」モードは、およそ1980年代まで続いた。このあとに、俵万智さんや穂村弘さんさら若手の「口語」短歌が出てくるのだとう。
 ココまで読んできて、「小説の文学史」から「短歌の近代史に」を期せずして知ることができた。