TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

本日の「朝日歌壇」を読む

 「朝日歌壇」も二週目だ。そういえば、昨日はじめて「朝日歌壇」に投稿した。落選のときは連絡は来ないのだろうな。
 さて、今日の掲載の短歌から私の好きな一首を選らんでみよう。

 「枯葉落ち桜並木の向こう側マスクの列がゆれて通りぬ」(兵庫県 中川志恵乃)↜佐佐木幸綱選 コメント:この風景は散歩していてよく見る最近の風景だ。この一首は、目で詠んだ歌と言えるだろう。参考になる。

 「追伸のごとく残りし紅葉散る新型コロナ終息はいつ(福岡市 宮原ますみ)」↜高野公彦選 コメント:この歌も目で詠んでいる。「追伸のごとく・・・」という比喩は適切なのだろうか? つけたしというう意味か?

 「わたくしを憶えていてもいなくても母はいつでもいつまでも母(ひたちなか市 菅野公子)」↜永田和宏選 コメント:高齢のお母さんんは認知になってしまったのだろう。それでも母は母だ。高野さんも同じ歌を選んでいるので、共選作品だ。

 「一日分値引かれた魚と一日分老いたわたしがスーパーで会う(和泉市 星田美紀)」↜馬場あきこ子選 コメント:こういうことって日常ですね。でもこうは詠めない。

以上とは別に、
 「誰か住み夕餉の支度する頃か君と暮した坂の上の家(福岡市 杉野順子)」という歌を、佐佐木幸綱さんと永田和宏さんのお二人が選んでいる。作者は女性である。これは、別れた君と暮していた丘の上の家だろうか? そうだろう。もっと別の新居に引っ越しているのなら、歌には詠まないだろう。

「一日分値引かれた魚と一日分老いたわたしがスーパーで会う(和泉市 星田美紀)」

「わたくしを憶えていてもいなくても母はいつでもいつまでも母(ひたちなか市 菅野公子)」

 今日の一押しは、上の二つにする。これらは、写生歌ではなく心象の歌であろう。一日くらい賞味期限が迫っても、少しでも安い魚を買うのが庶民の日常である。菅野さんの歌は実は辛い歌なのだ。私の義母も最晩年は、「家内が私は誰?」と言っても、実の娘を認識せずに、笑ってごまかしていた。耕治人さんの小説『そうかもしれない』を思い起こす。「この人はあなたの夫ですよ」と言われて、呆けてきた妻は「そうかもしれない」と応えるのである。