TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

私の「医人」たちの肖像ー(137)北山 修さんと「よみがえるあの頃の思い出」、そして糖尿病対談〜 2007年10月

137) 私の「医人」たちの肖像― 北山 修さんと「よみがえるあの頃の思い出」、そして糖尿病対談〜 2007年10月

 

 北山修さんは医師である。と同時に「おらは死んじまっただ・・・」の歌詞で有名な「帰ってきたヨッパライ」(1967年)が大ヒットした「ザ・フォーク・クルセダーズ」の元メンバーである。1946年生まれなので私と全く同学年である。それにしても、天は二物を与える。身長が1メートル75センチくらいあり背筋の伸びた紳士である、と初めてお目にかかって感じた。
 「ザ・フォーク・クルセダーズ」を、大ヒットを飛ばした一年後、1968年に解散して、北山さんは医学生京都府医大)に戻った。その後、大学を卒業する1972年まで作詞家としての仕事は続け、「風」「花嫁」「あの素晴らしい愛をもう一度」「さらば恋人」といったヒット曲を世に送り出した。
 「自分は心を言葉で表現する資質に恵まれているのかもしれない」という思いが、精神科医を目指す動機の一つになった。医師になった北山さんは精神医学を目指す。この辺の記述は、朝日新聞(2014年2月1日付)に掲載された「逆風満帆―精神科医北山修」という記事から引いた。

対談:北山 修 VS. 石井 均■
●2007年10月7日:

 雑誌「糖尿病診療マスター」の編集委員の一人の石井均さんと精神科医北山修さんとの対談を行った。対談は、雑誌「糖尿病診療マスター」における「Master Interview」というシリーズ企画の一つだった。対談は2007年10月7日、羽田空港の一室で飛行機の出発を待つという空いた時間に行われた。雑誌担当者のSOさんが1人で収録した。私も関心があり同行したかったが、叶わなかった記憶がある。
 収録した対談記録は「糖尿病患者を『抱える環境』をつくりたい―北山修先生(九州大学大学院教授)に」聞く」といタイトルを付して雑誌「糖尿病診療マスター」第6巻1号(2008年1月15日付)に掲載された。掲載号の冒頭に石井さんが次のようなリード文を書いている。

 「北山先生の著書『劇的な精神分析入門』(みすず書房、2007年)の中に、『普通であるはずの人生で、心の内外に普通でないことが発生したら、普通でない方法でこれを取り上げることになる』という一文があります。これは、糖尿病をもつ人生を考えるうえで非常に深い意味をもつ言葉だと思います。先生の御本の中に“宝物”がたくさんありました。今回は、糖尿病に関連する問題を提示して、精神分析医の立場からコメントをいただきました。」

 糖尿病医の石井さんは、刊行されたばかりの北山修著『劇的精神分析入門』を読まれて、糖尿病臨床における糸口を感じとった。この対談を読むと、糖尿病を抱えている私自身に直接的に響いてくる言葉がある。対談の最終場面から少し引用しておきたい。

 石井 私たちが付き合っていくことになる大きい心理的問題のひとつに、「なぜ、自分が糖尿病にならねばならなかったのか」という不条理、病気をもった「自分」というものを引き受けられないという否認があります。その思いと、糖尿病治療が「できない自分」と表裏になっている。そして、先ほど出てきたように、過去の幸せを奪われた、あるいは愛情を奪われたということとガチっと組み込まれて強固な心理的構造物をつくってしまっている。それをどうして行けばいいのか、その人にとって糖尿病をもつ人生という物語をどのように紡いでいけるか、についてお話いただけますか。
 北山 糖尿病になった自分を中に取り込みながら、人生の物語をどう書き換えていけるかですね。私は糖尿病患者さんの治療を専門にしているわけではないのですが、ほかの慢性疾患や、人生の不幸を突然引き受けられてしまった方々のことは、PTSD(post-traumatic stress disorder)として考えるのがいちばんよろしいと思うのです。急に糖尿病であることを引き受けなければならない。これはある意味、事故のようなものです。突然の不幸だというふうにご本人がおっしゃる場合もあるでしょう。

 この辺りの記述を読むと、糖尿病患者の一人である私には北山さんの仰る意味がよくわかる。私はC型ウイルス慢性肝炎の治療中に糖尿病罹患が判明した。両病の同時罹患は少なくはないらしい。何かの因果関係があるのかもしれない。私と同様の「症例報告」を読んだこともあるが、発症当時の乱れた食生活(過食)と運動不足とが棟尿病に繋がったのであり、必ずしも「事故」のようなものではないと、私は思っている。
 さて、対談の最後に北山さんが次のように述べていた。「(糖尿病の)治療者のほうが変わっていかねばならない」、という指摘だ。

 北山 非糖尿病的世界にどう目をむけるか。あるいはそういう世界に、心をどう開かれていくかでしょう。糖尿病ばかりで頭ができあがってしまうと、物語が全部糖尿病に冒されてしまうと思うのですが、先ほどから申し上げているとおり、治療者が、治療環境が、治療の設定が非糖尿病的な部分にどれだけ目を向けているか。充実感、あるいは価値観をどれだけ置いているかが問われるところではないでしょうか。そうなってくると、まずは私たちが変わらなければなりませんね。石井先生が、私に興味をもっていただいたことも、そういうことにつながるのではないかと思います。そこに向けて、頑張りましょう。どこかでまたお目にかかります。

 「またお目にかかります」という、対談の最後の言葉を受けるような形で、石井さんが主宰した糖尿病医療学研究会」の折に、北山さんをお招きしたことがあった。場所は神戸市内、2009年5月10日(日)であった。この研究会には、イーライ・リリーという糖尿病関係の製薬会社が関与していた。雑誌「糖尿病診療マスター」の担当者のK君とI君と私の三人で取材のために参加した。
 さらにその後、東京新宿の京王プラザホテル開かれた「甘えの構造」で著名な精神科医土居健郎さんを「偲ぶ会」で、北山さんに二度目にお目にかかった。土居さんは、7月5日に、89歳で逝去された。10月12日(月)午後13時~15時の間であった。会場で北山さんをお見かけして、臆面もなくご挨拶をした。
 「神戸の糖尿病医療学研究会でお世話になりました、医学書院の富永です」と申し上げた。「誰だ?」というようなお顔をされた。覚えていただけなくても仕方ない。それだけの出会いなので、このシリーズに一方的に取り上げるのは失礼かもしれないが、お赦し頂きたい。

いまこそ!聴きたいー1960年代、70年代の旅の歌■
●2021年1月:

 「よみがえるあの頃の思い出」というタイトルで、北山さんのことが朝日新聞(2021年1月23日)に出ていた。この記事から北山さんのことを纏めておきたい。同時代を生きた私自身を振り返る手立てになろう。この記事は吉田美智子さんという記者の署名記事だ。(吉田さん、よい記事なのでたくさん引用します。お許し下さい。)

《1960、70年代に「旅の歌」がヒットした。一番が山口百恵の「いい日旅立ち」、二番がかぐや姫の「なごり雪」、三番が中島みゆき「時代」、六番が、はしだのりひことシューベルツの「風」だ。》
 八番「津軽海峡・冬景色」となると、私の大好きな十八番カラオケソングである。
 《「交通網の整備で現実の旅が容易になっただけでなく、団塊の世代が思春期から青年期に入り、人生の『旅立ちの時』を迎えた。若者のエネルギーの発露だった音楽が再び大人に管理され、大資本と結びつくことで、ビジネスとして成功する過渡期でもあった。」》
 《日本はバブル経済の崩壊後「失われた20年」を経験し、そして今、新型コロナの感染拡大で再び混迷を深める。「旅行ができず、明日、明後日が分からない状況に、人々がまた心の旅を求めている」と、精神科医の北山さんは、分析する。》
 バブル経済時期とは1986年~1990年頃にかけて日本で起きた株価や地価の急上昇に伴う好景気のことだ。その頃、夜の銀座は不夜城で、終電が終わってもタクシーが列をなして日本中が浮かれていた記憶が、私にもあ

きずなとなったが楽曲「風」

 「風」は北山さんが作詞、バンドメンバーだったはしだのりひこさんが作曲した。1968年のバンド解散後、翌年の1月、はしだのりひことシューベルツが発表した。この楽曲は、バンド解散の一カ月前に、高知県に宿泊した折に、台風で閉じ込められた旅館で作られたんだという。

 《「きたやまさんとはしださんは共に、学生時代に親友を自死で亡くす経験をしていた。『どんなにつらくても、空しくても、人生はただ歩き続けるしかない』―。」》
 《そんな中から「風」の歌詞が生まれた。「きたやまさんが『ただ風がふいているだけ』と『死』を感じさせる余韻を残して終わらせようとすると、はしださんが『前向きな終わりにしたい』と抵抗した。『振り返らずにただ一人、 一歩ずつ 振り返らず泣かないで 歩くんだ』を加えることになった。
 きたやまさんは当時、スポットライトと歓声を浴びる華やかなステージを一歩降りると、死があり、お金も必要とされる『不確かな日常』の落差に苦しんでいた。」》

 なるほど、そういうことだったのか。医師の道に戻ってきた北山さんの心のほどがわかる気がする。1970年11月、作家の三島由紀夫さんが市ヶ谷で割腹して亡くなった。混沌とした不確かな時代の夕ぐれのことだった。
 「文学は男子一生の仕事にあらず・・・」と、文学の「ブ」の字もわからないまま、私が実社会に乗り出したのが、翌年の1971年だった。その年に私の学生時代の友人NYが、小樽銭函の海に自ら身を投じて消えた。友人の自死を体験させられたのだった。
 《『音楽界に戻って欲しい』というファンの素朴な願いから、『ミュージシャンごときが医者になるなんて許せない』という嫉妬に満ちた批判まで、『二足のわらじ』を目指す生き方を認めようとしない周囲の空気も感じていた。そうした圧力から逃げる様に、卒業後の研修先に札幌医科大学を選んだ。》
 受けいれてくれたのは後に学長となった第一内科教授の和田武雄さんだった。若者を暖かく迎える自然と素朴さを、北の大地はまだ残していた。
 私が札幌を去った翌年の1972年から、北山さんは札幌医科大学で二年間の研修医生活を送っていた。札幌という共通の場の存在を知って、単純な私は北山さんにとても親近感を覚えた。

 《人生のはかなさを旅と風に見立てた楽曲は約60万枚のヒット。北山さんはバンド解散後、大学に戻り、心の病の治療者の「道」に本格的に進む。その後、北山さんとはしださんは、ある楽曲をめぐって仲たがいして、40年間も連絡を絶ったのだという。それが同じメンバーの加藤和彦さんが自死(享年62歳、2009年)した後に、お互いに呼びかけ再開した。パーキンソン病を患っていたはしださんは、2017年に亡くなった。『・・・・・いま人生を振り返っても、そこにはやっぱり、風が吹いているだけなんです』》

 歌のヒットにも浮かれずに、北山さんが医学の道に戻って歩んできたところに強靭な意志を感じる。
(2021.1.28)


(私の「医人」たちの肖像―〔137〕北山 修さんと「よみがえるあの頃の思い出」、そして糖尿病対談〜 2007年10月)