TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

「私」の詩としての短歌を目指そう

 『短歌の友人』(穂村弘さん著)を読み継いでいる。短歌って一筋縄ではいかにことが分かった。私の歌は他の人を感動させなくてもいい。「私」の記録としての時系列に沿った「うた」でよい。それしかない。

 穂村さんの本の「第4章リアリティの変容」まで読んできた。最初の「モードの多様化について」を読んだ。私の理解と記憶のために概要を纏めおきたい。

 風さやぐの空をうち仰ぎ限りなき星の齢をぞおもほふ(伊藤佐千夫)
死に近き母に添寝のしんしんとい遠田のかはづ天に聞こゆ(斎藤茂吉

 穂村さんはうえのような近代短歌についてこうまとめている。
私見では斎藤茂吉の作品を頂点とする、このような近代短歌的なモードを支えてきたものは「生の一回性」の原理だと思う。>
 このように解説してもらうと、「ああそうか」と納得する。ただ、ついモードという言葉に違和感をもつ。モードはフランス語 mode のことで、「流行(の形式)」とか、「方法、様式」ということらしい。「モードの多様化」ということは、「流行りがいろいろひろがる」ということなる。それまでの様式から更に変化していく。

 日本脱出したし皇帝ペンギン皇帝ペンギン飼育係りも(塚本邦雄

 この有名な塚本邦雄のうたは、従来のモードからの脱出なんだという。塚本邦雄は超有名なので颯爽と短歌の世界に出てきたのだと思ったら、なかなか迎え入られなかったのだという。ここに至るまでの変化を、穂村さんはこう解説している。
 <我々は「生の一回性」の実践を手放すことで、何度でも再生可能なモノとしての言葉を手に入れたのである。>

こうして、「言葉のモノ化」の次に出てきたのが、短歌への『口語』導入なんだという。
 「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいる暖かさ(俵 万智)

 短歌に素人の私ですらよく知っている俵万智さんの登場は衝撃的だった。俵さんは、神奈川県橋本高校の国語の新任先生だった。

 以上の流れをまとめると、「私」の詩⇒「言葉のモノ化」⇒『口語』短歌の導入、というモードの変化がある。このあと、さらに短歌は変貌する。

 リモコンが見当たらなくて本体のボタンを押しに寝返りを打つ(斉藤斎藤
 これは2004年に第一歌集を出したひと(若いといっても45歳?)だ。斉藤斎藤が本当の姓と名だと聞いて驚いた。でも、これって私には面白くもなんともいない。これが「短歌」なのかという気もする。穂村さんはこういっている。
 <戦後の夢の果てを生きる「私」の姿。そのみすぼらしさにショックを覚えるが、この荒涼としたリアリティのなかにこそ、等身大の今の希望は求められるべきかもしれない。>

 ここまで、穂村さんの解説を読んでみると、短歌って本当は難しい。私が知っているのは、石川啄木斎藤茂吉と釈超空くらいだ。

 『おじいいちゃんが退院できたうれしいないっしょにたべるうなぎはおいしい』
 うえの歌は先月の朝日歌壇に載っていた。小学生くらいのこどもの作品だろう。こんな素直なうたはまた無理だ。

 いまの今になって、短歌を始めた私は何処を目指したらいいのだろう。むつかしく考えることはないだろう。私にとっての短歌は「生の一回性」のなかでの「私」の詩を目指していくしかない。つまり、短歌は生きるエネルギーになるとはそういう意味だろう。