TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

『「糖尿病」を引き受ける』ってこういうことかと少しわかった

 なんとか「禁酒」を継続している。一人酒以外の機会のみは容認しているので、「飲み会」があれば酒がのめるのだ。しかし、自宅中心の自粛生活なので酒飲みの機会がない。
『病を引き受けられない人々のケア』(石井均)の第八話「インスリンなんか打ったら、本当の糖尿病になってしまう!」をよんだ。この章は、鷲田清一(哲学者で元大阪大学総長)との対談だ。鷲田さんは、朝日新聞で「折々の言葉」というコラム(第一面左側)を執筆している。鷲田さんはいろいろな本から「短い文章」を引用して、その真意を解説している。いまから20年くらい前に詩人の大岡誠さんが寄稿していた「折々の詩」という連載コラムがあった。こちらも随分ながいあいだ続き、たぶん単行本になっていると思う。鷲田さんの「折々の言葉」は大岡さんのアナロジー的な記事だと思う。ただ、採り上げる「言葉」が余りにの多彩で、時には「何だこれ?」というのもあった。それが2週間前から、著者(鷲田さん)の都合で休載となっている。鷲田さんは、京都大学哲学科出身の哲学者で、『わかりやすいはわかりにくい? 臨床哲学講座』ほか、本をたくさん書いている。1949年うまれだから私よりも2歳も若い。

 <鷲田 「人はなぜ生きるのか」、「幸福とはなにか」といった問いは、確かに「解くことができない」という意味では人類永遠の問題ですね。
 ですが、そういう問いを発せざるを得ないのが人間なんです。たとえば「幸福とは」や「生きることの意味とは」という問いも、「自分はこれを幸せと思っていいのだろうか?」、「なぜ自分ばかりがこんな不幸な目にあわなきゃいけないのか」、「仕事にやりがいが感じられない。この仕事に何の意味があるのだろうか?」という形で、それらをちゃんと言葉でにできるかはどうかは別として、人である限り誰もが抱えている問題であり、決して雲の上の問題でもなければ、哲学者だけの問題でもありません。ですから、哲学の問題は実に身近な問題であって、そういう意味では物理学の問題よりもはるかにわかりやすいものでしょう。>

 鷲田さんは、哲学はあたりまえの暮らしの中にある、と言っている。たしかに、その通りだろう。石井さんは、糖尿病はきわめて「哲学的な病気」である、「糖尿病は目に見えない病気」であることから、「臨床哲学」という概念を発信している鷲田さんとの対談を希望したのだろう。

石井 糖尿病というのは、端的に言えば、血液の中のブドウ糖濃度が高くなる病気です。ほとんどの方はすぐには何の症状も出ません。そのため、糖尿病の方から多く受ける質問はというと、「私は糖尿病ですか?」というものです。これは糖尿病という病気の特徴を考えるヒントになる質問だと思っています。>

 糖尿病は軽い初期のうちは全く自覚症状も」ないのだ。昨年の2月4日に4か月ぶりに受診した。ヘモグロビンA1cが8.4と高値であった。まったく日常生活に異常はなかった。ただ毎日の食生活と日々の歩行を怠っていただけだった。つまり、私は自分の「糖尿病」をきちんと理解していなかったのだ。

石井 私どもは「糖尿病になる」も、「糖尿病である」も、「糖尿病」と「私」を結びつける言葉としてはあまりふさわしくないのではないかと思い、いろいろと考え、私は「糖尿病を引き受ける」というのがよいのではないかと思っているんですよ。>

 石井先生、実にいいことを言っている。「糖尿病を引き受ける」なんて、着想が良い。糖尿病は一度なったら、治ることはないのだから、一生涯つまり死ぬまで、「引き受ける」病気なんだ。そして、多分、「糖尿病を引き受ける」ということは、お酒をたくさん飲んだり、美味いものをたらふく食べる生活とはオサラバする、ということなんだ。