『短歌の友人』の第6章 短歌と〈私〉を読んだ。短歌とはやはり「私」が出てくるものなのだと分かった。たとえ「世相」を詠んでいても「私」が出てくる。
「詩人をみていると、その頭もハートも庶民のものではない、と思う」、という件のところで穂村さんがこう書いている。」
「歌人の頭は、庶民、ハートは庶民の十倍も庶民なのである。特に後者の「ハートは庶民の十倍も庶民」は、大歌人の条件といってもいいくらいだ。
人間は予感なしに病むことあり癒れば楽しなほらねばこまる(斎藤茂吉)
これが大歌人の歌とは気がつかないかもしれない。なんてことない。あたりまえのことを言っているだけである。
中年のわれは惰眠棲処とし長きゴールデンウィークを過ごす(高野公彦)
おなじく有名な歌人高野公彦の歌である。さらに最近の俵万智さんの歌は庶民そのものだ。
なんでもない会話なんでもない笑顔なんでもないからふるさとが好き(俵万智)
そういえば、石川啄木にもこんあな歌があった。
「さりげなく言いし言葉はさりげなく君も聴きつらむそれだけのこと」
前衛短歌、岡井隆や塚本邦雄というと、難しい歌を思い浮かべる。また、近頃の朝日歌壇の掲載作品も、「世相を切り取る」歌が多いように思う。さりげない庶民の「私」の歌は好まれないようにも思える。とは言っても、やはり短歌は私の反映であるというか、好むと好まざるにも関わらず「私」がでるのだと知った。
昨日も、コロナ禍にあって、体調管理のためにたくさん歩いてきた。町田市真光寺から小野路へ抜ける山道をあるいた。そこで次の歌もどきを詠んだ。
コロナ禍で散策の日課となりて
「里山を歩き疲れてて眺むれば千手観音此処は浄土か」
見晴らしのいい峠中腹から向かいの山を眺めると、お寺の境内に忽然として千手観音像が屹立している?初めて見た時には本当に驚いた。