TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

『短歌の友人』(穂村 弘)を読んで-短歌って厳しいってわかった

 高橋源一郎さんの本に触発されて、『短歌の友人』を紐解いたらこの本はかなり重い本であった。穂村さんは、1962年札幌生まれとのことだ。私より15歳若いだけなので、もう59歳になたている。もっとい若い世代かと思っていた。
  第6章 短歌と〈私〉というところに、こういうことが紹介されていた。
 <1990年に最初の歌集を出したあとに、石田比呂志による穂村弘論が『雁』に掲載された。「穂村弘の歌集『シンジケート』に私はなんの感興も湧かない。そんなはずはない、同じ人間の作ったものがわからんはずはないと心を奮いたたせるのだが、力めば力むほどチンプンカンプンで歯がたたぬ。>
 こう書いたあと、石田さんは、こう言っている。
「いや、もしかしたら私の歌作りとしての四十年は、この一冊の歌集に出現によって抹殺されるかもしれないという底知れぬ恐怖感に襲われたことを正直に告白しておこう。本当にそいうことになったとしたら、私はまっ先に東京は青山の茂吉墓前に駆けつけ、腹かっさばいて殉死するしかあるまい」(「シンジケート非申し込者の弁」「現代短歌『雁』二一号)
 すごい文章ではないだろうか。批評というものは、本来は共感したから書くものと思っている(お目出度い)私はびっくりしてしまった。「感興が湧かない。わからない」と思ったら無視すればいいだけではないのか。実は、石田さんはものすごい(理解を絶する)若い歌人の出現に、驚愕して怯えたのではないだろうか。
 石田さんの「穂村弘論」を読んだ穂村さんが驚愕して、こう書いた。
 <一読してショックで頭の中が白くなった。歌人論でありながらこの文章には引用歌が一首もない。つまり石田比呂志は私の歌集を批判しつつ、実質的には「おまえのような人間はだめだ。死んでも認めない」と云っているのだった。>
 そして、この後で、穂村さんはこう結んでいる。
 <だが、石田の文章を読んで私が感じたショックのんくぁかには、恐怖や怒りや悲しみに

や混乱と共に、説明し難い未知の感覚が含まれていた。今から考えるとそれは殆ど喜びに近いものだったと思う・・・・・〈私〉の核にあるものが歌を通じて否応なく明らかになり、それによって未知の誰かの強い反応を〈肯定であれ、否定であれ)引き出すことを。>
 上記のような応答に、私は本当にびっくりした。穂村さんは否定はされたが、強い反発が示されたことに喜びを見いだした。こんな世界では、私は太刀打ちできなという感想をもった。そこで今からでも、先輩の石田さんを驚愕させた穂村さんの『シンジケート』を読んでみたい。
 『短歌の友人』のさいごは第7章 歌人論」が最後だ。歌人論では、戦後の終焉というくくりで、寺山修司塚本邦雄が採り上げらている。「想いの」の圧縮と解凍という項目に次のような文章があった。
 「短歌や俳句や詩などの韻文が、小説のような散文に比べて、一般に難しいと思われがちなのは、書かれた情報に圧縮がかかっているからだ。それらを読んで味わうためには、圧縮された情報を読者の側で解凍しなかくてはならない。」
 なるほど、そういうことなのか。短歌を読み味逢うためのヒントをいただいた。
 「男の子なるやさしさは紛れなくかしてごらんぼくが殺してあげる」
 「あね姦す鳩のくくもる声きこえ朝からのおとなたちの汗かき」
 上の二首は共に、平井 弘さんの歌だ。穂村さんが、「半世紀の凝視」という表題で論じている。正直なところ私にはりかいできない。あまり難しい歌は会諦めて、私なりに歌を読んでいきたい。

 <補足>
「短歌の友人」を読みながら、57577と短歌もどきを作っている。先日は、川崎市黒川から町田市真光寺、小野路へと2時間余の散策をして詠んだ。歌としてのひらめきというか、意外性とか、ひかる「これは」とお言うものがないね。作歌は難しい。

 里山を歩き疲れて眺むれば千手観音ここは浄土か
 コロナ禍で独り歩きて眺むれば千手観音浄土か此処
 自粛せよ独り歩けば忽然と「千手観音」浄土か此処