TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

川端香男里さんの訃報に接して思うこと

 川端香男里さんがなくなった。川端さんが体調を崩していて、「川端賞の選考ができない」というような情報を数年前に聞いた。本日(2021年2月18日)の朝日新聞朝刊に、川端さんの訃報が出ていた。
 <川端香男里(かわばた・かおり)=東京大学名誉教授・ロシア文学)3日、老衰で死去、87歳。葬儀は近親者で営んだ。訳書にザミャーチン「われら」など。作家の川端康成の娘婿で、川端康成記念館の理事長を務めた。>
 川端さんとは、面識があった。というより、川端さんのロシア文学概論のような講義を受けた。記憶を思い起こしながら記録を残したい。1966年年に北海道大学文類に入学した。1967年に文学部ロシア文学科に進んだ。そのときに、川端さんは北大ロシア文学科の講師だった。川端さんは私より13歳くらい年長だから、当時は33歳か34歳頃だった。モスクワ留学から帰国したばかりだった。その少し前に作家の川端康成の養女と結婚して川端と改姓したのだった。旧姓は山本といって、英文学者の山本政喜さんの息子ということだった。1967年後期(9月頃)に、北大教養部から文学部ロシア文学科に進んで、川端さんの講義を受けた。数か月後に、川端さんは北大から東京大学に移籍することになった。多分、1967年の年末か1968年の1月か2月であったろうか、川端さんの送別会を開いた。安い酒をしこたま飲んで、わたしたち露文科の学生7~8名が川端さんの自宅まで押しかけた。川端さんの奥さん(つまり、川端康成さんの養女の方)は、既に東京に所用で行っていて留守であった。留守だから川端さんは薄汚い(多分)学生らを自宅に招いたのかもしれない。当時の北大露文化はオブローモフというか余計者のたまり場だったのだ。さぞかし、若い川端さんは迷惑したろう。夜中に押しかけたので、冷蔵庫の食べ物まで漁ったのを覚えている。その数か月後に、川端さんは札幌から東京に去って、10年後くらいには東大教授となった。その3年後に私は、北大露文科を卒業して東京文京区の医学系出版社に職を得た。その会社の編集長で後に社長を務めた長谷川泉さんは、国文学者で川端康成森鴎外、つまり日本近代文学の研究者であった。長谷川泉さんが、2004年12月10日に亡くなった。その葬儀が芝増上寺で行われた。長谷川さんは川端康成の研究者で、川端文学研究会会長を務めていた。その縁で、長谷川さんの葬儀に川端香音里さんも出席された。その折に、私も同会場でお目にきり、北大でお世話になったことがありますと挨拶した。50数年を挟んでの邂逅なので当然ながら川端さんの反応はなかった。川端さんが札幌を去った後に、北大露文科の助手として赴任してきたのが、当時、まだ27歳くらいの中村健之介さん(東大名誉教授)だった。長く生きていると、いろいろな人との出会いがある。それらが謂わば滓のように記憶の中に蓄積してくる。それがいいとか煩わしいとかは別にしてそうなのである。
 本日は、川端さんの訃報に接して想い出を記した。川端さんが訳したザミャーチン「われら」、教養書「ロシア文学入門」も書棚にあるので読み返してみたい。