TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

「フジター色彩への旅」箱根ポーラ美術館を見てきた

 昨日から箱根にきた。2日目の今日は朝から仙石原のポーラ美術館に行ってきた。
 折よく、藤田嗣治の「フジター色彩への旅」という特別展示が開かれていた。藤田について多くを知っているわけではないが、パリで活躍したピカソをしのぐような画家と野認識があった。藤田は5回結婚した。最初と最後が日本人だ。最後の妻の堀内君代さんとは、藤田が50歳のときに25歳の君代さんと結婚している。五回の結婚数は、高橋源一郎さんと同じだ。
 フジター色彩への旅(FOUJITA EXPLORATIONS INCOLOR)とタイトルをつけた展示は二つの広いフロアを使ってダイナミックだ。
 Ⅰ パリとの出あい 「素晴らしき乳白色」の誕生
 Ⅱ 中南米への旅 色彩との邂逅
 Ⅲ アジァ旅行記 色彩による大画面の絵画へ

 Ⅳ 心の旅行き 色彩から啓示へ

 1,913年、26歳の藤田は、世界的な画家になることを夢見て藤田は渡仏した。東京美術学校を卒要した藤田は、首席卒業ではなかったので官費でのパリ留学ができなかった。父親は森鴎外の次の軍医総監であった。藤田は私費でパリにゆくことにしたが、若くして結婚した妻をともなうことは経済的にもむりであった。こうして、26歳で渡仏した藤田嗣治(のちに、フランス国籍を取得してレオナール・フジタ、1886-1968)は、旅先で目にした風景や人物、異国の歴史や風俗などに創作のインスピレーションを求めた。1920年代にパリの女性をモデルに「乳白色の肌」を完成させた。この乳白色は白い鉛を用いて藤田がうみだした。パリ画壇の寵児となった、フジタは、その後、旅によってあらたなモティーフや群像表現のための構図と、色彩豊かな表現手法を開拓していく。1929年の日本への一時帰国の後、パリを離れて南米へ旅立った。藤田は世界を旅するときに伴う女性もその都度というように代わっている。フジタは、中米から北米へと移動し、太平洋を渡って再び日本へ戻ってきた。東北や沖縄をはじめとする日本各地、そして中国大陸や東南アジアへと移動を続け、1949年にニューヨークに渡るまでは、旅こそがフジタのアトリエであった。

 今回のフジタの展示絵画のなかで、中国の力士を描いたもの、「優美神」という裸婦像(1946-1948)が印象に残った。
(記憶と記録のために、概要をまとめた)。