TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

気になる本のことについて書いておく―『あるヤクザの生涯―安藤昇伝』(石原慎太郎作)

 石原慎太郎さんがまた本を書いた。この人はやはり政治家よりも作家が似合うと思った。文藝春秋の6月号(2021)に「晩節における『死』との対峙」という特別寄稿を寄せていた。

「最近私はあくまで私の死後に出版する約束で私の一代記を書きはじめたが、八十八というかなりの高齢の今、相対的にかなりの波乱続きだった我が人生の終局に、肉体の衰弱に伴ってのさまざまな未練がかもしだされ晩節のふがいない有様に戸惑っている。」

 石原さんは自分の「死」が近いことを意識している。そして、『最後の未知』としての死に対してもどかしさを感じている。

ソルボンヌ大学の哲学教授だったジャンケレブイッチの『死』についての綿密な分析の中での、『老衰は死の育成である』という定義通り、この私も日々肉体の衰微を味わいながら死の育成をしみじみ実感しているが明らかにその先にあるものについては想像もつかない。」

 あの知性の固まりのような石原さんをもってしても『死は』は未知なるものなのである。八十八年の石原さんをして、老衰という死の育成をようやく感じているとのことだ。七十四歳のわたしなどは、健康に気をつけて「老衰という死の育成」を目指すのが順当と実感した。

 石原さんは弟の裕次郎さんの死にふれ、彼のように苦しみ抜いて死ぬのだけは嫌だという。石原さんは米寿を過ぎたが、少し前に軽度な脳梗塞に見舞われて、後遺症でさまざまな肉体的な不本意を強いられているらしい。石原さんはあくなき書くことへの意欲を培いながら「老衰という死の育成」に勤しんでいる。

「となれば晩節に於ける肉体の衰微がもたらす『死』への予感を超克した安定した晩節を維持するために人間は何を杖として自分を支える人生を全うすればよいのだろうか。」

 こう問いかけた石原さんは、水泳の池江さんに教えられたことして、死を乗り越えるには、「死の到来を予感させる老化を阻止する試みを反復する以外にあり得舞まい」と述べる。  「『死』という『最後の未知』に臆することなく池江さんのように自ら踏み込んで迎え撃つという姿勢こそが己を失うことなく『最後の未来』を迎えるに違いない」と結んでいる。

 石原さんの言葉に虚無も無常もない。いたって健康で前向きな「死生観」ではないだろうか。石原さんは死ぬ直前までペンを離さずに書くだろう。政治家の石原さんには、承服できかねた。しかし、数年前に田中角栄の自伝を一人称で書いた『天才』を読んだときに、石原慎太郎は小説家なんだと感じた。

 石原さんがまた新刊を出した。
『あるヤクザの生涯―安藤昇伝』(幻冬舎)だ。読んでみたい。