TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

興味深い記事― 時代の栞 「開かれている病棟」 石川信義 1978年刊 精神医療のあり方を問う

 興味深い記事が朝日新聞夕刊(2021年11月24日)に出ていた。記録と記憶のために概要を纏めておきたい。

 私が子どもの頃には、高崎市郊外の山の中に「あかい家」とい言われた病院があった。差別用語になるが、「き✖✖病院」と呼ばれていて、一度は入ったら出られないと子どもたちにも恐れられていた。
 <1968年5月、群馬県太田市の小高い丘に新しい病院が開院した。私立の三枚橋病院。24時間施錠された鉄格子の窓で入院患者を閉じ込める閉鎖病棟をもたない、全開放型の精神病院だ。>
 院長の石川信義(1930~2020年)さんがこう宣言したんだという。「従来の精神病院のもろもろの慣習、制度のうち治療を阻害していると考えられるすべてを、とっぱらってみる。そこから生まれるであろう新しい状況のなかから、新しい精神病院のあり方を考えていく」

 『開かれている病棟』(1978)は、全開放型病院の約10年間の実践をまとめた記録であるという。この本を読んでみたい。
 精神科医療の問題を追及してきた大熊一夫さんは、石川さんの行動を「反牧畜」の病院を作ってくれた、と高く評価しているんだという。それでは、石川さんの試みは発展したのだろうか。否である。今も30万床を超える精神科病棟のううち、7割程度が閉鎖病棟なんだという。

 精神病棟の開放と言えば、イタリアのトリエストが有名である。トリエステでは、いまから40年近く前に、精神病院がなくなった。当時、朝日新聞の記者だった大熊一夫さんは、1970年にアルコール依存症を装って都内の精神病院に入院して、「ルポ・精神病院」を連載した。この連載を当時、私も読んだ。大熊さんは、『精神病院はいらない! イタリア・バザーリア改革を達成させた愛弟子3人の証言』(現代書館)というほんで、トリエストのことを紹介している。

 <孤軍奮闘の三枚橋病院は赤字に苦しんだ。1986年、大熊さんらと欧米の先進的な精神科医療の現場を視察して帰った石川医師を迎えたのは、留守中に結成された労働組合赤旗だった。>
 この混乱で。石川さんは院長を退いた。後年、病院創立50周年記念誌に石川さんはこう書いたのだという。「私の目論んだ、『精神病院の夢のカタチ』はここで全てが潰えさった。」 

(上記は、今田幸伸記者の署名記事だ。概要を引用しながら纏めた)

今回、上記の記事を読んでいたら、内海 聡著『精神科は今日も、やりたい放題 医者がお教える、過激ながらも大切な話(PHP文庫)』を思い出した。著者の内海さんも、本にも興味ががる。精神病院に関しては、1983年の宇都宮病院事件(石川文之進院長)のことを想い起した。

 ■精神科病院をめぐる戦後の主な出来事■(上記の記事に挿入から転載)

1950年 精神衛生法施行
1954年 厚生省が必要病床数を35万床と試算。病院設立に公的補助開始。
1958年 医師数を一般病院の3分の1、看護職を3分の2にするなど精神科特例を厚生省が通知。
1960年 医療金融公庫の低利融資開始。民間精神病院の設立を後押し。
1964年 駐日米大使が統合失調症(当時は精神分裂病)の少年に襲われ負傷。
    ライシャワー大使はこの時の治療における輸血で肝炎ウイルスに罹患して、後に肝硬変、肝がんで死亡した。
1965年 精神衛生法が改正され病院が急増
1968年 三枚橋病院設立
1979年 大和川病院で看護者が患者を殴り殺す
1983年 宇都宮病院で看護助手らの暴行が原因で患者二人が死亡した
1987年 精神衛生法改正で精神保健法
1993年 障害者基本法制定で精神障害者が福祉の対象に
2002年 精神科救急入院病棟を導入
2006年 「精神病院」 の用語を「精神科病院」に改称

(更新予定)

『心病める人たち:開かれた精神医療へ(岩波新書)』 石川信義
石川さんは不思議な経歴なひとだ。1930年に桐生で生まれ、東大経済学部を卒業して就職して、辞めて東大医学部に入りなおして、医師になった。精神科医だが、カラ子ロム登山、南極観測隊ににも参加している。2020年7月2日になくなった。去年のことだ。お会いしてみたかった。