TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

『黄金の女達』(小島信夫)の「日本の河を読み継いでいる

 モースが17日間の航海を経て横浜に着いたのは、明治11年6月のことだという。モースは二年間の契約で東大の教授になった。モースといえば大森海岸であの有名な貝塚を発見したあのモースである。モースは英国に出かけてダーウィンに学んだ人だという。モースは米国人なんだ。モースは、ヘルンが日本にいた頃にボストン美術館博物館の「日本陶器館理官」にになったりしてる。その3年後の明治37年に、岡倉天心が同じボストン美術館の中国・日本部顧問になっている。岡倉天心という人がまた天才で、著作は英文で書いている。なんか規模が大きい。ヘルンはどういうキッカケで、日本にきて日本人の女の節を妻にしたのだろうか。この辺のところは、この本に書いてある。
 「夢の中の出雲の女」の章で、ヘルンは「百姓が産まれてくる子を次々と間引いていった話」に言及している。ヘルンは、日本の出雲に最初にやってきた。出雲の民衆をよくみている。生まれてくる子を間引く、詰まり殺すのなら産まなければよいのにと思うのは下衆の思いあがりだろうか。
 「宇宙は謎である。謎を解くは人々の勝手である。」これは、漱石虞美人草に書いてある。「虞美人草」は、漱石明治41年に発表したものだが、明治20年代の後半、つまりヘルンが日本にきたころに、既に同じようなことを考えていた、のだという。
 <明治29年に熊本の高等学校の雑誌に、人間というものは「何時にても狂気し得る動物」だ、まことに不可思議千万なものだ、と言っている。>
 こういう件を読むと、まったく若い日のドストエフスキーが言ったのと同じことである。漱石ももた「病という才能」の持ち主だった。

 『黄金の女達』を読むことは、明治からの日本の文化の変遷を辿ることになる。この頃に漱石だけでなく、樋口一葉内村鑑三もでてくる。これと同じような文脈は、高橋源一郎の「日本文学盛衰史」を読んでいて感じたことと同様である。明治の中頃から日本が近代国家へ移行する中で、日本の文学、文化が開かれてきたことがわかる。
 とにもかくにも、『黄金の女達』を読み継いでみよう。