TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

私の「医人」たちの肖像― (153) 中田 力さんと幻のインタビュー「functional MRIについ」

(153) 私の「医人」たちの肖像― 中田力さんと幻のインタビュー「functional MRIについて

 

 2001年は歴史に残る年である。ニューヨークの貿易センタービルに航空機が相次いで激突したのが、2001年9月11日のことだった。
2001年12月17日(金):
■対談:この人に聞く「Functional MRIについて」

 この日、夕刻から、東京・恵比寿のウエスティンホテルの会議室で、雑誌「脳と神経」のシリーズ企画「この人に聞く」の一つとして、中田力(新潟大学・脳研究所脳機能解析学・教授)さんに「functional MRIについて」のテーマでお話をお聞きした。中田力さんは、東大医学部を卒業して、1978年に渡米して、米国でMRIの研究で有名になって、新潟脳研の教授として日本に戻ってきた方と知っていた。この時にお目にかかったのが最初で最後であった。この時から7~8年後、宝金清博先生(当時は北大脳神経外科・講師、現北大学長)にお会いした折に、MRIを学ぶために宝金さんが中田力さんの所に留学をされていたと本人から直に伺ったことがある。『脳脊髄MRA 基礎と臨床―流れの画像化』(中田力・宝金清博編著、1997年 中外医学社)を作っていることを今回知った。

 インタビューの聞き手は、編集委員のお一人、河村満(昭和大学教授・神経内科)さんにお願いした。というより、河村さんが提案の企画だった。待ち合わせ場所を、東京・恵比寿のウエスティンホテル1Fフロントにした。22階のビクターズというレストランで、食事を挟んで19~21時くらいまで対談を行った。その速記録(A4判で50枚くらい)が残っている。しかし、この対談は日の目を見ることが無かった。対談の後で、「これはボツだね」と、河村先生が仰って、「脳と神経」に掲載することはなかった。以上は私の記憶である。

  本日、古い資料を整理していたら、A4 40枚の速記録のコピーが出てきた。「幻の対談」の記録を読んでみた。本来なら業務で知り得た情報なので、勝手に利用するのは倫理に反するかもしれないが時効としてお許し願う。貴重な記録である。

 対談(インタビュー)では、(1)前半で、fMRIについてお聞きした。冒頭はこんな具合だった。

 河村 最初に「脳と神経」の読者に、先生のお仕事の中で最も有名なのは機能解析ですから、MRIによるものですが、脳機能の解析手法に幾つかありますが、MRI、PETの二つが主流だと思います。他にもありますが、その利点、欠点を教えていただこうと思います。

 中田 細かいことを全部はぶいてしまいますと、基本的には自分たちが対象としているのがヒトそのものだということですね。ということは触ってはいけない。触ってはいけないという条件があっても、機能を求めている以上は、ある程度の位置情報を確保しなければならない。位置情報と機能を結びつけると機能画像という表現になる。つまり、最終的にその両方が使えるものということで画像という言葉が出てきた。ただ、いろいろな方に誤解があって、画像というのは画にしなければいけないと思われている。実際のところ画像という言葉が出てきた理由は、位置情報が欲しいということですね。ですから、位置情報を取ることの難しさが、技術開発者の技能だったわけですね。

 次に、(2)中田さんが出版した『脳の方程式 いち・たす・いち』(2001年9月、紀伊国屋書店)についてお聞きした。この本の話の中で、中田さんは、自らが脳の研究者というよりも、「アメリカの臨床医」であることを強調していた。アメリカでは、「ジャングル病院」において、18年間、あらゆる臨床に携わっていたことを語っていた。この対談の後で、中田さんは、『アメリカ臨床医物語―ジャングル病院での18年』(紀伊国屋書店)を出している。そのあと、(3)1996年に新潟大学の脳研究センターに赴任したころのエピソードが語られた。新潟において、急性膵炎になり死にそうになった経験を語る。新潟大学病院での急性膵炎の治療方針がダメなことも語っていた。主治医が絶食にしたのだが、自らは動けないので2リットルの水を持ってきてもらい水分補給をして、かつ家族に豆腐をもってきてもらい隠れて食べたと語っていた。私も、27歳の折に急逝膵炎で七転八倒の苦しみを味わったことがある。その折の治療も絶食して点滴だった。次いで、(4)高校生の頃、友人と「君たちはどう生きるかという哲学」を語りあった経験が開陳される。この辺から、話が個人的な回想も含めて、饒舌で難解な語りに過ぎるようになってきた。

  以上の経緯から、この折のインタビュー「脳と神経」に載せるには無理があると、インタビュアーの河村先生が判断された。どのようにして、中田先生に「掲載を見送る旨」をお話したのかは記憶にない。

 上記のインタビューの収録は、2001年12月17日だ。翌年、2002年6月に『脳の方程式 ぷらす・あるふぁ』を、同じく紀伊国屋書店から出している。そのあとも次々と本を出している。『脳のなかの水分子―意識が創られるとき』(2006年8月)、等々。

 この時から7年後、2008年10月、エイズウイルス発見者のモンタニエがノーベル生理学・医学賞を取った後で、中田さんが医学界新聞に「エイズウイルス・ノーベル賞を読み解く のテーマで、寄稿されていたのを読んだ。この折には、「何故、脳研究の中田さんが」と、興味を惹かれた。バックナンバーが何処かに保存してある。読んでみると、若くして米国に渡り米国で臨床医となった中田さんが、外から日本の科学、医学を分析的にみていたのだと知った。

「医学界新聞」(第2826号、2009年4月13日)に、「2008年ノーベル賞を読み解く』のテーマで、中田力(新潟大学脳研究所統合脳機能研究センター長・教授/カリフォルニア大学教授)さんが、寄稿している。「寄稿」となっているので、編集部からの依頼ではなくて、中田さんからの投稿(寄稿)であったのだろう。

  2008年のノーベル生理学・医学賞は、HPVウイルス発見者のzur Hausen(ドイツ)とエイズウイルスを発見したモンタニエとバレシヌシ(フランス)にあたられた。2008年のノーベル賞は、エイズウイルス発見の優先権をフランスのモンタニエらに与えることで、米国のG alloの落選を世界に告知したのだった。中田さんは、次のようにも書いている。
 <この判断は、権威主義にも傾きがちな日本科学界への警告にもなった。1988年、いまだ科学として決着がついていない段階で、1987年の政治決着を前提として、日本国際賞がMontagnier, Gallo両博士に贈られているからである。>
 2008年の物理学賞は、南部陽一郎アメリカ)、小林誠(日本)、益川敏英(日本)の三人、化学賞は、下村 脩(アメリカ)、マーチン・シャルフィー(アメリカ)、ロジャー・Y・チェン(アメリカ)の三人に授与された。国籍がアメリカとなっているが、四人の二本人が同時にノーベル賞に輝いたのは画期的なことだった。これに対して、「ただ、日本という国家にとっては、真剣に考えなければいけない現状の提示であることを忘れてはならない。」と、中田さんが指摘していた。まさに正鵠をついていると言えるだろう。時代は下って、2021年ノーベル物理学賞は、複雑系物理学分野における画期的な貢献に対して、「地球気候を物理的にモデル化し、変動を定量化して地球温暖化の高信頼予測を可能にした業績」により日本出身の真鍋淑郎さん(プリンストン大学)他に与えられた。真鍋さんは、日本からの頭脳流出というよりも、日本の研究環境を見限って米国に研究の場を求めたとの印象が強い。

さて、中田 力先生は、いまはどうしておられるかと気がついてインターアネットで調べてみた。なんと中田さんは2018年7月に逝去されていた。68歳という若さであった。中田さんのことをもっと知りたいので、記憶と記憶のためにネットで得た情報を如何にまとめておく。

 中田力さんは、1950年、東京生まれ、2018年7月1日に、米国の三フランシスコで逝去。専門は、fMRIを用いた脳神経学。新潟大学名誉教授。日本学術会議会員、日本文藝家協会会員でもあった。中野不二男の著書『脳視ドクター・トムの挑戦』は、中さんがモデルだという。逝去の際に、新潟大学脳研究所―統合脳機能研究センターでは、「中田力先生を偲んで」という追悼特集をインターネットに掲載しているのを知って、拝読した。さらに、2018年9月16日に、東京都内のホテルで、「中田 力先生を偲ぶ会」が開かれた。日本医事新報で「フィロソフィア・メディカ」という連載で、臨床医を元気づけていたのだという。この会で、中田ファミリーと呼ばれる弟子たちを代表して宝金清博(北大病院長)が追悼の辞を述べていた。中田さんは、2018年5月、「Neuroscientist」という雑誌に、以下の論文を掲載した。「Fluid Dynamics Inside the Brain Barrier」。<これは、中田さんの集大成の論文である。「20~30年後に大変な評価を受けるだろう」>と、宝金さが述べたのだという。

本日は、古い資料を紐解くところから、シリーズ<私の「医人」達の肖像>に、中田 力さんを取り上げた。中田さんの早世を惜しむばかりだ。これから中田さの書かれた本を読んでみる。
(2022.2.3)
(私の「医人」たちの肖像― 〔153 中田力さんと幻のインタビュー「fMRIについて」)