TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

私の「医人」たちの肖像―(131)中田力さんと幻のインタビュー「functional MRIについて」〜2001年12月17日

(131)  私の「医人」たちの肖〜中田力さんと幻のインタビュー「functional MRIについて 〜2001年12月17日

 

 平成一三(2001)年は私たちの記憶と歴史に残る年である。二機の航空機がニューヨークの貿易センタービルに相次いで激突したのが、2001年9月11日のことだった。中田力さんに初めてお目にかかった時のことを書きたい。この時お目にかかったのが最初で最後であった。中田力さんは、東大医学部を卒業して1978年に渡米、米国でMRIを用いた脳研究で業績をあげて、新潟大学脳研究所の教授として日本に戻ってきた方と知っていた。この時から7~8年後、宝金清博さん(当時は北大脳神経外科・講師、現・北大学長)にお会いした折に、中田力さんの元にMRIを学ぶため留学をされていた、と本人から直に伺った。『脳脊髄MRA 基礎と臨床―流れの画像化』(中田力・宝金清博編著、1997年、中外医学社刊)という本を二人で刊行している。

対談:この人に聞く「functional MRIについて」
2001年12月17日(金):

 2001年12月17日(金曜日)。夕刻から、東京・恵比寿のウエスティンホテルの会議室で、中田力さん(新潟大学・脳研究所脳機能解析学・教授)に「functional MRIについて」のテーマでお話をお聞きした。雑誌「脳と神経」のシリーズ企画「この人に聞く」の一つとしての対談収録であった。インタビューの聞き手は、編集委員のお一人、河村満さん(昭和大学教授・神経内科)にお願いした。というより、雑誌の編集委員のお一人だった河村さんが提案された企画だった。
 待ち合わせ場所を、東京・恵比寿のウエスティンホテル一階フロントにした。食事を挟んで19~21時くらいまで、二十二階のビクターズというレストランで対談を行った。しかし、この対談は日の目を見ることが無かった。
 「これはボツにしよう」と、河村先生が対談の後で仰って、「脳と神経」誌に、対談を掲載することはなかったのだ。その理由は後述する。
 以上は私の記憶である。ところが私がその時にとった走り書きメモと記録が、古いファイルからでてきた。件の「幻の対談」の記録を読んでみた。業務で知り得た情報なので勝手に公開するのは倫理に反するかもしれないが、時効としてお許し願う。貴重な記録であると思う。対談(インタビュー)では、前半でfMRIについてお聞きした。冒頭はこんな具合だった。

 河村 先生のお仕事の中で最も有名なのは機能解析、MRIによるものです。脳機能の解析手法に幾つかありますが、MRI、PETの二つが主流だと思います。他にもありますが、その利点、欠点を、「脳と神経」の読者に、最初に教えていただこうと思います。
 中田 細かいことを全部はぶいてしまいますと、基本的には自分たちが対象としているのがヒトそのものだということですね。ということは触ってはいけない。触ってはいけないという条件があっても、機能を求めている以上は、ある程度の位置情報を確保しなければならない。位置情報と機能を結びつけると「機能画像」という表現になる。つまり、最終的にその両方が使えるものということで画像という言葉が出てきた。ただ、いろいろな方に誤解があって、画像というのは画にしなければいけないと思われている。実際のところ画像という言葉が出てきた理由は、位置情報が欲しいということですね。ですから、位置情報を取ることの難しさが、技術開発者の技能だったわけですね。

 次に、中田さんが、その頃に出版した『脳の方程式 いち・たす・いち』(2001年9月、紀伊国屋書店)についてお聞きした。この本の話の中で、中田さんは、自らが脳の研究者というよりも、「アメリカの臨床医」であることを強調していた。アメリカでは、「ジャングル病院」において、18年間、あらゆる臨床に携わっていたことを語っていた。この対談の後で、中田さんは、『アメリカ臨床医物語―ジャングル病院での18年』(紀伊国屋書店、2003年7月)を出している。
 そのあと、1996年に新潟大学の脳研究センターに赴任したころのエピソードが語られた。中田さんは新潟で急性膵炎になり死にそうになった経験を語る。新潟大学病院での急性膵炎の治療方針がダメなことも語っていた。主治医が絶食にしたのだが、自らは動けないので2リットルの水を持ってきてもらい水分補給をして、かつ家族に豆腐をもってきてもらい隠れて食べたと語っていた。私も、27歳の折に急逝膵炎で七転八倒の苦しみを味わったことがある。その折の治療も絶食して点滴だった。
 次いで、「君たちはどう生きるかという哲学」を高校生の頃に友人と語りあった経験が開陳される。この辺から、話が個人的回想も含めて饒舌で難解な語りに過ぎるようになってきた。以上の経緯からインタビューを「脳と神経」誌に載せるには無理があるとインタビュアの河村先生が判断された。中田先生に「掲載を見送る旨」をどのようにして了解を頂いたのかは記憶にない。中田さんの謦咳に接した貴重な機会であった。

 上記のインタビューの収録の翌年、2002年6月に、中田さんは『脳の方程式 ぷらす・あるふぁ』を同じく紀伊国屋書店から出版している。そのあとも次々と本を出された。『脳のなかの水分子―意識が創られるとき』(2006年8月)、等々。この時から七年後、2008年10月、エイズウイルス発見者のモンタニエがノーベル生理学・医学賞を受賞した。その翌、2009年に中田さんが医学界新聞に「エイズウイルス・ノーベル賞を読み解く」のテーマで、寄稿されたのを読んだ。
 「何故、脳研究の中田さんがエイズについてなのだ・・・・」と、この折には興味を惹かれた。幸いにも保存してあった同紙のバックナンバーを読んでみた。若くして米国に渡り米国で臨床医となった中田さんは、「日本の科学と医学」を外から分析的にみていたのだ、と理解できた。

「2008年ノーベル賞を読み解く」■
●2009年4月13日:

「2008年ノーベル賞を読み解く』のテーマで、中田力(新潟大学脳研究所統合脳機能研究センター長・教授、カリフォルニア大学教授)さんが「医学界新聞」(第2826号、2009年4月13日)に寄稿している。「寄稿」となっているので、編集部からの依頼ではなくて、中田さんからの投稿(寄稿)であったのだろう。2008年のノーベル生理学・医学賞ヒトパピローマウイルス(HPV)ス発見者のツア・ハウゼン(ドイツ)とエイズウイルスを発見したモンタニエとバレシヌシ(フランス)に与えられた。中田さんは、次のように読み解いた。

《2008年のノーベル賞は、フランスのモンタニエらにエイズウイルス発見の優先権を与えることで、米国のGalloの落選を世界に告知したのだった。この判断は、権威主義にも傾きがちな日本科学界への警告にもなった。1988年、いまだ科学として決着がついていない段階で、1987年の政治決着を前提として、日本国際賞がMontagnier, Gallo両博士に贈られているからである。》

《2008年の物理学賞は、南部陽一郎アメリカ)、小林誠(日本)、益川敏英(日本)の三人、化学賞は、下村脩アメリカ)、マーチン・シャルフィー(アメリカ)、ロジャー・Y・チェン(アメリカ)の三人に授与された。国籍がアメリカとなっているが、四人の日本人が同時にノーベル賞に輝いたのは画期的なことだった。これに対して、ただ、日本という国家にとっては、真剣に考えなければいけない現状の提示であることを忘れてはならない。》

上に引用した、中田さんの指摘はまさに正鵠をついていると言えるだろう。時代は下って、2021年ノーベル物理学賞が、「地球温暖化の高信頼予測を可能にした業績」により日本出身の真鍋淑郎さん(プリンストン大学)他に与えられた。複雑系物理学分野における画期的な貢献に対してである。真鍋さんの場合は、日本からの頭脳流出というよりも、日本の研究環境を見限って米国に研究の場を求めたとの印象が強い。

中田力先生は、いまはどうしておられるかと気がついてインターネットで調べてみた。中田さんは、なんと2018年7月に逝去されていた。68歳という若さであった。中田さんのことをもっと知りたいので、記憶と記憶のためにネットで得た情報を以下にまとめておく。
 中田力さんは、1950年、東京生まれ、2018年7月1日に、米国のサンフランシスコで逝去。専門は、fMRIを用いた脳神経学。新潟大学名誉教授。日本学術会議会員、日本文藝家協会会員でもあった。中野不二男の著書『脳視ドクター・トムの挑戦』は、中田さんがモデルだという。逝去の際に、新潟大学脳研究所―統合脳機能研究センターでは、「中田力先生を偲んで」という追悼特集をインターネットに掲載しているのを知って拝読した。
 さらに2018年9月16日、東京都内のホテルで、「中田力先生を偲ぶ会」が開かれた。日本医事新報で「フィロソフィア・メディカ」という連載を書いており、臨床医を元気づけていたのだという。この会で、中田ファミリーと呼ばれる弟子たちを代表して、宝金清博(当時、北大病院長)さんが追悼の辞を述べていた。中田さんは、2018年5月、「Neuroscientist」という雑誌に論文「Fluid Dynamics Inside the Brain Barrier」を掲載した。「これは、中田さんの集大成の論文である。20~30年後に大変な評価を受けるだろう」と、宝金さんが、弔辞の中で述べたのだという。

 本日は、古い資料を紐解くところから、シリーズ私の「医人」達の肖像のお一人に、中田力さんを取り上げた。中田さんの早世を惜しむばかりだ。これから中田さの書かれた本を読んでみたい。
(2022.2.3)
(私の「医人」たちの肖像―〔131〕 中田力さんと幻のインタビュー「fMRI」について〜2001年12月17日)