TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

『小散文詩パリの憂鬱』 シャルル・ボードレール (訳 荻原足穂)を読む

 

    畏友・荻原足穂さんが、ボードレールパリの憂鬱」を新たに翻訳した。荻原さんは、医学系の出版社で一緒に仕事をした仲間の一人である。その一端は、<私の「医人」たちの肖像>というブログでも触れた。心身医学の河野友信さんと「神経性食思不振症」(1985年)、ドーパミン研究の業績でノーベル賞(2000年)、日本国際賞(1994年)を受賞したスウエーデンの薬理学者Arvid Carlssonさんと「神経伝達物質」(1992年)という座談会企画は、荻原さんの持ち込みだったことを想い起す。
 詩人で作家の稲垣足穂と同じく豊かな名前をもった荻原さんは、豪放磊落な語りの編集者で、かつ労働組合活動や政治運動にも一家言を持った「真のひと」であり、私は仰ぎみていた。豪放磊落といったが、呑み会の折などに迸る片言のフランス語の中にナイーブで繊細な孤独の陰が見えたりした。定年退職して、袂を分かってから、既に15~16年が経った。先日、ボードレール『小散文詩パリの憂鬱』の新訳を、「牧歌社」から出版したと聞いた。即、アマゾンに注文すると、翌日には本が届いた。一瞥する。「ボードレール散文詩に彷徨い、遊ぶ」と帯広告にあった。さらに、訳者紹介を読むと、関西大学文学部仏文科を1968年卒業と書いてあった。仏文出身とは知らなかった。大学で外国文学を専攻しても、四年間で外国語が大抵はものにならないのが常だ。「あとがき」を読むと、荻原さんは素直にこう述べている。
 <訳者はもともとボードレール詩集をかかえて、気ままに目を通していたサラリーマンであり、アマチュアにすぎない。出身こそフランス文学科だが、研究者や翻訳家になるような訓練を受けたことはない。ところが数年前、ふと原文でボードレール散文詩に親しみたくなり、注釈や解説を少し読みたくなった。これが発端。魔が差した。そのうち幻視か幻聴か、ボードレール本人のあの狷介な、皮肉屋の、へそ曲がりの、高貴・冷徹、だがどこか親しみも感じさせる顔が浮かび、しかも、「注釈や評論の翻訳もいいが、俺の散文詩そのものは訳したのか?」との声までが聞こえるような錯覚に囚われた。そこで散文詩を通じて200年前に生まれた詩人との対話を始めたのだ。>
 そういうことであったか、と納得。荻原さんにとって、「幸いな彷徨いの日々 」が始まった。ボードレールが、有名なフランスの詩人であることだけは、私も知っている。五十五年前の学生時代、札幌市の古本屋「南陽堂」で買った「人文書院ボードレール全集Ⅰ~Ⅳ」を今も書棚に並べている。
 早速、荻原訳「小散文詩パリの憂鬱」にとりかかった。とはいえ、一気に読みとおしてわかる類の詩文ではない。そこで、まず、「あとがき」と冒頭の小倉康寛さんが書かれた「ボードレールの言葉が開くと時」を読んだ。その後で臆面もなく強引にこの一文を草している。
 何を隠そう、隠すことは何もないのだが、荻原さんと同じく、私も文学部出なのだ。北海道大学文学部・露文科を1971年に出た。それも、ドストエフスキーの「白痴」について小文を草したことがある。かのロシア国の「ドスト氏」は、ボードレールより、7カ月若いが同じく1821年に生まれた。二人は「ため」なのである。ボードレールが、「小散文詩パリの憂鬱」を書いていた1865年、ドストエフスキーは「罪と罰」を書いた。パリとフランスは、ロシアの知識人にとって憧れであり、高嶺の花のようなものだった。ボードレールの詩を、ドストエフスキーは密かに読んでいたかもしれない。奇しくも二人は、共にアメリカのエドガ・アラン・ポーを愛読していた。さらに、二人とも「病い」を持っていた。晩年といっても42歳のボードレールは、梅毒による不調に苦しんでいた。一方、ドストエフスキーは、てんかん持ちだけでなく統合失調症と不安神経症を、若くして患っていた。ボードレールドストエフスキーも、「病い」をエネルギーにして生きて、そして書いた。「病い」もまた才能の一つである。このことを、北大時代にお世話になった中村健之介さんの本『永遠のドストエフスキー—病いという才能』(中公新書,2004年)で、私は知った。
 とまれ、荻原足穂・新訳『小散文詩パリの憂鬱』を読みながら、ボードレールの世界を彷徨える幸せな機会を得たことに感謝したい。そして、この詩文に親しむ際に羅針盤となってくれるのが、荻原さんが惜しむことなく展開する「蛇足」の言葉である。これらは、蛇足どころか「珠玉」の言葉である。この「蛇足」を手掛かりに、荻原さんの「小散文詩の森」を、私も彷徨ってみたい。