TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

『暇と退屈の倫理学』(國分巧一郎)を読んでいるのだが理解を超えるので阿部公彦さんお解説を先に読んでみた

 國分浩一郎さんが書いた『中動態の世界』を読んでみたいと思っていた。偶然に、『暇と退屈の倫理学』を院外図書館でみつけて借りて来て読んでいる。しかし、どうにも読みこなして理解するのが難しい。「第六章 暇と退屈の人間学」の項目を読むと、部分的には理解できる。「ダニの世界」のところで、ユクスキュルというエストニア生まれ(1864~1944)の理論生物学者の、「環世界Umbelt」ときう概念に関する記述などは部分的には理解できて頗る面白い。しかし、全貌はこの爺さんの頭ではとらえ切れないのである。そこで、今の時代だから、この本の解説本も会うのではないかと、ネットで検索した。あるのだ。それも結構たくさんの解説ブログなどがある。その中ら、わかりやすいのを読んでみた。
阿部公彦評『暇と退屈の倫理学』プロの読み手による 書評空間
 こういう便利な書き込みもあるのだと気が付いた。ところどころ引用しながら読んでみたい。
 <「退屈」は極めて深遠なテーマである。パスカルニーチェショーペンハウエルキルケゴールハイデッガー、・・・近代ヨーロッパのおなじみの思想家たちはいずれも「退屈」に深い関心をよせ、あれこれと考察を展開してきた。>
 んだ、そうだ。私の場合には、「退屈」した経験はあまりないような気がする。ということは、食うために働くために精一杯で、「退屈」している暇がなかったのだ。

<本書の芯をなすハイデガーの退屈論についての考察の中に、環世界という概念が出てくる。動物にはそれぞれ固有の知覚の方法があって、その動物固有の空間や時間を作っているという考え方である。動物は自分をとりまくこの環世界に完全にとらわれている。しかし、人間はちがう。なぜなら、人間はひとつの環世界から別の環世界に移ることができるから。これは別の言い方をすると、人間がどの環世界にも属さずにいれれるということである。この無所属の実感が、退屈の起源をなす。と同時に無所属となることが可能だからこそ、人間は考えることができる。哲学することができる。退屈とは、哲学する行為の極めて本質的な部分に食い込んだ何かなのだ。>

 こういう解説をよむとチョットわかったような気がする。この本を読み始めたということは、定年後の私は初めて退屈を経験して、哲学する時間をもてたということだろうか。

<本書は啓蒙書として、またメッセージの書として書かれているだけに、かなり明確な結論を用意している。浪費せよ、消費するな、というのだ。それだけ聞くと、「???」なテーゼかもしれないが、通して読むとストレートすぎるほどストレートな議論であることが見えてくる。・・・・・・実践の書という体裁をとっておいるとはいえ、3月以来、「それどことじゃない」という雰囲気が支配してきた世の中に、およそ浮世離れした(と見えるが実はそうでもない)この退屈というテーマをぶつけてきたところを買いたいと思うのである。>

 まだ、『暇と退屈の倫理学』を読了しないうちに、解説を読んでしまった。結論は、「浪費せよ、消費するな」というのだそうだ。面白そうなので、最後まで読んでみよう。
 それにしても、この解説をかいている阿部公彦といは何者かに興味を持った。調べてみると、阿部公彦さんは、横浜生まれで56歳の、英文学者で評論家だと言う。『病んだ言葉 癒す言葉 生きる言葉』という本を去年(2021年)に出している。この本の広告を見て、気になる本としてこのブログでも書いておいた記憶がある。読書連鎖が続きそうだな。