TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

キエフからキーウヘに触発されて、ウクライナ語のことなど思う

 ウクライナの首都「キエフ」の呼称が「キーウ   と日本語のカタカナで表記されるよになった。ウクライナ語の発音に近つけたもののようだ。ウクライナ語とロシア語がどのくらい違うのかはしらない。呼称の表記の変更としては、かつて「ビルマ」と呼ばれていた国名が「ミャンマー」と変更されたのを想い起す。竹山みちおの『ビルマの竪琴』で知られるビルマは、スーチンさんの「ミャンマー」となったのだった。それは、ともかく「キーウ」の惨状がつらい。

 「キーウ近郊 民間人410遺体 ―ウクライナ発表 「戦争犯罪」捜査へ」の見出しが、朝日新聞朝刊(2022年4月5日)の一面に載っていた。
 <ロシア軍によるウクライナ侵攻を「めぐり、ロシア軍から解放された首都キーウ(キエフ)近郊で、民間人とみられる410人の遺体がウクライナ検察当局によって確認された。ロシア側は関与を否定しているが、ウクライナのゼレンスキー大統領は戦争犯罪として捜査するための特別な司法機構を立ち上げると表明した。国際社会がロシアに追加の経済制裁科す可能性も浮上している。>(新聞記事より)

 テレビでキーウの惨状をみると、お花見に浮かれている自らが居たたまれなくなる。キーウ近郊のブチャの惨状は大震災の跡地よりもひどい状況である。ところがである。キーウで残虐行動について、ロシア外務省のザハロフ報道官は、4月3日夜、「(ウクライナ)の政権の犯罪とは、和平交渉の決裂と暴力の拡大である」とSNSに投稿。ウクライナ側が停戦協議の決裂を狙って引き起こしたものだと主張したんだという。「SNSに投稿」とは何だろう。

ウクライナ語と古い記憶ー福岡星児さんのこと
 岸田首相の特使としてポーランドを訪問した林芳正外相が、ロシアの侵攻によりウクライナからポーランドに逃れてきた人のうち、日本に避難を希望する20にの方を政府専用機に載せて、本日、4月5日に到着した。テレビや新聞にも5~6歳くらいのリュックを背負った男子と女性の姿が写っていた。いずれも日本に家族や知人がおられる人らしい。ともかく日本社会で受け入れて援助していくことが必須だと思う。これにつけて、言葉の壁は大きいいだろうと思う。私は片言のロシア語なら意思疎通が少しはできるがウクライナ語は分からない。ウクライナ語といえば、北大露文科でお世話になった福岡星児さんが、ロシア語だけでなウクライナ語及びウクライナ及びポーランド文学にも造詣が深い人だったことを想い起した。そこで、いまなき福岡さんのことを調べてみた。
 福岡さんは、1926年~2003年1月22日。ハルピン学院(満州国立大学)で、ロシア語を学んだ。このハルピン学院の同窓生に私が、後に(1972~1980年頃)本郷ロシア語クールスでロシア語会話を教えて頂いた坂本市郎さん(当時、新座市在住)がおられた。評論家の内村剛介さん(本名は内藤 操)もハルピン学院で同窓だと聞いた。戦後(昭和20年~50年?)の初期の頃の日本におけるロシア語やロシア文学の研究者、翻訳家にはハルピン学院出身のかた数多おられた。件の福岡さんは、ハルピン学院のあたお、1947年に北海道大学法文学部の第一期生として入学(露文)し、木村彰一さん(東大から赴任したロシア語、露文学者)の指導を受けた。1950年に北大を卒業して、北海道新聞社に就職した。同年10月に北大文学部露文(木村彰一教授)の助手に就任した。私が、北大文学部露文科に入った1967年(~1971年卒業)に、福岡さんは北大文学部露文科の助教授だった。1978年7月に文学部教授、1989年に定年退官した。退官の3年前から悪性リンパ腫を患っており、2003年1月22日に逝去された。
 以上の時系列をみると、私が初めて福岡さんにお会いしたのは、私が20歳で福岡さんも41歳というまさに壮年期だったのだ。酒を飲まない(飲めない)福岡さんは、超喫煙者(ヘビースモーカー)で、60~90分講義の途中でも喫煙が赦されていた。大学の講義が喫煙しながらというのだから今から思うと異常事態だ。もっとも、学生のほうも5~6人しかいないので、講義というよりも読書会の雰囲気であった。福岡さんの業績は以下のようだと知った。
 1960年9月~1961年9月まで、ウクライナキエフ大学に日本人として初めて留学した。当時は既にソ連の時代だが、なぜモスクワやレニングラードでなくてキエフだったのだろう。『ボリスとグレープの物語』の翻訳や注解をはじめとするロシア中世文学の研究業績を発表している。そういえば、北大露文の講義では、『ボリスゴドノフ』という中世の文献を講読した。一回の購読で、一頁くらいしか進まない遅々とした歩みで不勉強の私たちは辟易した。トルストイドストエフスキーのほうを読んでみたいと思った経験がある。
 福岡さんは1983年にキエフで開かれた第9回スラビスと会議で、『過ぎし年月の物語』にける、学会でオレーグの死の予言とその実現をめぐる挿話の解釈について研究報告を行った。このほか、ウクライナ語原点から『人生の書に記されしこと』(コツュビンスキイ)を翻訳(1965年、筑摩書房)や、ポーランド語から『尼僧ヨアンナ』(1967年、恒文社)を翻訳した。『尼僧ヨアンナ』は私の書棚にもあり、最近読み返した。これは、凄まじい中味の本で大学で購読するような中味ではない。そのせいか福岡さんは、私たち学生に語ったことは一度もなかった。というよりも、学生の私たちが無知で幼稚すぎて「語るに足らず」と思われていたのかもしれない。ともあれ、ウクライナ語に新たに興味をもった。ウクライナ語の辞典でどこから出ているのかな。