TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

気になる本『あの胸が岬のように遠かったー河野裕子との青春』『歌集 置行堀』(永田和宏さん)のこと

 小池真理子さんのエッセイ『月夜の森の梟』が朝日新聞に連載されていたときに読んでいた。こういう夫婦がいるんだと思い、羨望した。私は恋愛経験というものがないのだった。自分の夫がなくなって、その喪失の悲しみを新聞で書くものだろうか、と思った。このエッセーは多くの共感を呼んで本になって、更にまた読まれているらしい。いずれは読んでみたい。
 本日の朝日新聞(2022年4月16日)朝刊「折々のことば(鷲田清一)」に触れたい。この連載コラムは、玉石混淆で、時折り何だこれ、と随分酷い。昔、「折々の詩」という連載を詩人の大岡信がやっていた。この連載は一貫して面白く読んだ。ところが、鷲田さんの「折々のことば」が余りにも多岐に亘り、時には承服できないものもあるが、今回の「ことば」は至極まともだ。

<老いることは自分の付き合っている他人が死ぬことなんです。他人の死を見送ることです。> 

 鷲田さんが次のように解説している。

<大切な人、親しい誰かの死は、私がその人を亡くすこと、いいかえると私が自分の一部を失うこと、つまりはその人に私が死なれるということでもある。そのかぎりで自分がずっとかかわってきた人の死は、日づけのある一度限りの出来事なのでなくて、喪失という生の体験である。だから、後をひく。哲学者の『神話的時間から』>

 今回の「折々のことば」は、まともなので全文を引用してしまった。鷲田さんは、私より一歳若いだけなので殆どいううことがわかりやすい。
 最近、旧友のRB君に死なれてしまった。「アルコール性認知症」とかの診断がついてしまって。2年前に高田の馬場で飲んでのが最後になってしまった。数少ない友人に死なれてしまうのは辛いことだ。

 ようやく今日のテーマにはいる。本日の朝日新聞の「著者に会いたい」に、『あの胸が岬のように遠かったー河野裕子との青春(新潮社)』『歌集 置行堀(現代短歌者)』(永田和宏さん)のことがでていた。永田さんも年をとったな、と挿入された写真を見て思った。

 <大学時代に歌会で出会い、40年余を共に過ごした。遺品を整理して見つけた結婚前の日記をためらいつつ開いたのは、「俺は河野にふさわしかったのか」という思いが募ったからだ。日記に別の男性も登場することは分かっていた。出会いから半年後、「先に愛した男性がいて忘れられない」という揺れる気持ちを告げられていた。代表歌のひとつ〈たとへば君 ガサッと落葉すくふやふにわたしを攫って行っては呉れぬか>は、その日に詠まれたと知った。>
 <河野さんの一途に人を想う気持ちを残したい、と十数冊の日記帳と二人で交わした300通超の手紙、互いの短歌をもとに、青春の彷徨記をつづった。「書くことで、これでよかったんだね、と少しずつ自分を納得させていった。」と振り返る。>

 永田さんの、『あの胸が岬のように遠かったー河野裕子との青春』は、先日、テレビドラマになったようだ。見逃したのてま、いずれ見てみたい。
 <(乳癌をわずらった)妻の闘病中も科学と短歌の両立で忙しかった。置いてけぼりにしたと悔いたが、やがて置いていかれたのだと気づく。「本所には置行堀のあるといふ置いてけとなぜ叫ばなかった」と第15歌集で詠んだ。>

 永田さんの本を読んでみたい。それにしても、自分を表現する方法を持っている人は、なんと羨ましいね。永田さん格好がいいよ!