TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

『パリの憂鬱』(ボードレール、荻原足穂訳)を読んでいる

 『中動態の世界』の世界を読もうとして、先に、『暇と退屈の倫理学』を先に読んだ。この本の、結論は、「消費ではなくて浪費をせよ」が、暇をえたいまの私たちの求める道であった。消費は毎日のパンに尽きる。「パンだけではなくバラも求めよう」というのが、結論としての思想であった。「割合とわかった気がした」のだった。生きるための食うだけでなく、バラも求めて浪費する。なんか爽やかな気がする。私にはできないことだった。

 さて、『パリの憂鬱』を毎日、少しずつ読んでいる。かつて、私は中原中也から、萩原朔太郎も、大手拓次も読んだ、詩人愛好家だった。自分で、私家版の詩集も作ったりもした。15歳で詩人である少年は少なくはないだろう。

<15 お菓子>を読んだ。これが、散文詩の情景なんだろうか。貧しい風景のようにも思えるのだが。
「私は安らかな気持ちでパンを切り分けた、そのとき、ごくかすかな物音がし、私は目を上げた。私の目の前にはボロボロの服の、色の黒い、髪がボサボサの子供がいて、その窪んだ、他人を寄せつけぬ、そして懇願する者のような眼がパンの固まりを貪るように見つめていた。そして私はその少年がしゃがれた低い声で「お菓子だ!」とつぶやいたのを聞いたのだ。・・・・」

 これを読むと、この散文詩が意外と娑婆に根差したものとわかる。高踏的なテーマではないのだ。蛇足で訳者が次のように書いている。

<「半分コ」の思想の不在はいまだ今日のものだー社会の格差、世界の格差・・・・「人は生まれながら善」との言説は虚妄にすぎない現実だ。だがしかし、世界各国の為政者はせめて飢えた子供にパンを与えよ!パンを与えることのできないは母親だけを責めるのを止めてくれ。>

 ・・・・パリの憂鬱は、もしかしたら、われわれの社会の底辺をも含めたにんげんのことを描いているんだと少しわかった。分からないなりに読んでみよう。