TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

『復活』(トルストイ)を読み始めてしまった—ウクライナ戦争からロシア文学へ

 何十万という人間が一つの小さな場所へ集まり、そこで互いにせり合って、その土地どんなに石を敷きつめたところで、また萌え出てくる草を一本のこらずたんねんに取りつくしたところで、また石炭や石油でどんなにいぶしたところで、またどんなに木を刈りこんだり、鳥や獣を追っぱらったりしたところで、――春はやっぱり春であった、都会の中にあってさえも。太陽が暖めると、草はよみがえって、根こそぎにされなかったところならどこでも、並木街の芝生の上ばかりでなく、しき石のあいだからさえ萌えだして、いたるところに青い色を見せてくるし、白樺や、白楊や、みざくらなども、ねばりのある香りたかい若葉を開き、菩提樹ははぜた新芽をふくらましてくるし、鴉や、雀や、鳩なども、春の喜びにみちて、はやくも巣の支度をはじめ、日あたりのいい壁には、蠅がぶんぶんうなっていた。こうして、植物も鳥類も、昆虫も子供も、みな嬉々として楽しんでいた。が、人々は—―一人前のおとなでけは—―自分で自分をだましたり苦しめたり、互いにだまし合ったり苦しめ合ったりすることをやめないのだった。いったい人間の考えでは、神聖で貴重なものは、こうした春の朝でもなければ、またあらゆる生物の幸福のため与えられたこうした神の世界の美――平和と、一致と、愛にみちびく美でもなくて、彼らが互いに他を支配し合うために自分勝手に考えだした事柄なのであった。

トルストイ『復活』 中村白葉訳、より)

<戦争をしない生きもの春の野に雲雀と燕がこぼすさえずり(観音寺市 篠原俊則)>
「日々、ウクライナの情報が伝えられる。第一首の「戦争をしない生きもの」はそれに触発さあれてのものか」と選者の馬場あきこさんが、コメントしている。じつは、春に「雲雀と燕」が一緒に囀る風景は、四国の観音寺市にもないのではないか。雲雀は空高く飛んで囀るが、燕は人家の屋根や橋げたの下に巣をつくるのに追われてさえずりは少ないはずだ。まあ、それはどうでもよいのだが、春の野というものがどういうものであるかを確認するために、引用してみた。

 トルストイの「復活」の冒頭の書き出しが、こんな素晴らしい春の描写から始まることを初め知った。トルストイの晩年の作品である『復活』は、遠藤周作の『私が棄てた女』の原形なのではないかと、穿って考えている。この本も、小島信夫さんの『私の作家遍歴Ⅱ』からの影響である。『復活』を読み始めた。