『復活』(トルストイ)の後編を朝の6時30分から少しだけ読んだ。主人公のネフリュードフの苦労が佳境に入って来た。それにしても、いまか100数十年も前の帝政のロシアでは、こんなこ難しい小説が読まれていたのだ。驚きである。150年前には鉄道はあったが蒸気機関車も電気もガスもなかったのではないか。
今日は床屋に行くついでに、リクエストしてあった本を稲城図書館で借りて来た。以下の本だ。
(1)まとまらない言葉を生きる(荒井裕樹)柏書房
(2)月の満ち欠け(佐藤正午) 岩波書店
(3)和解(志賀直哉) 新潮文庫
(4)和解・小僧の神様(志賀直哉) 旺文社
(5)小説の読み書き(佐藤正午) 岩波新書
(6) 作家の口福(朝井リョウ) 朝日文庫
(7)麦本三歩の好きなもの(住野よる)
(1)~(5)はリクエストして借りた。(6)(7)は返却棚から何となく借りた。多分、全部は読めないだろう。
さて、早速に、『まとまらない言葉を生きる』(荒井裕樹)を読み始めた。
まえがき「言葉の壊れ」を悔しがる
第一話 正常に狂うこと
第二話 励ますことを諦めない
ここまで読んできた。
<「昔の患者はある意味でみんあ詩人だったんじゃないかな。自分じゃ気が付かないだけで。挫けそうな心を励まし、仲間をいたわる言葉をもっていたからね。」
この言葉を記したのは、ハンセン病回復者の山下道輔さん(1929ー2014年)。長らく国立ハンセン病療養所で生活されていた方だ。>
著者の、荒井さんは、こんあことも書いていた。
<なにか酷い出来事が起きたとき、「言葉は無力だ」と言われることがある。何を言っても「きれいごと」だと批判される。>
かつて、「飢えてた子供の前で文学は役に立つか?」というような、議論があったことを想い起す。一方、「文学は実学だ」といった人の言葉をよんだ。『文学は実学である』(荒川洋治 みすず書房)
ともあれ、荒井さんのこの本は、久しぶりに訴えるものがある。
続く