プーチンさん「ロシア文学は不滅です」と言いたいような、『復活』のフィナーレであった。ウクライナへのロシア軍の侵攻を「解放」と言い換えることはどのような理由付けをしても無理がある。『復活』は、トルストイの最晩年の大作だ。中村白葉さんの解説によれば、「ドゥホボールのカナダ移住費調達のために原稿料が必要だったのが、小説執筆を止めていたトルストイが書いた理由だという。
『復活』は主人公マースロワとネフリュードフの悲恋の物語ではない。この些か長い物語に、ロシアの裁判、さらに監獄までが生き生きと事細かに描かれている。そして、結末は聖書の引用という予想外のものとなっている。
<寝につこうともしないで、ネフリュードフは長いこと、宿屋の一室を前後に歩いていた。カチュウシャとの彼の事業はおわりを告げた。彼は、彼女にとってもう不用の人間であった。彼にはそれが、悲しくもあれば恥ずかしくもあった。しかし、彼をいま苦しめているのは、そのことではなかった。・・・>
ネフリュードフはマースロワを救うために、若い日の過ちを償って彼女と結婚すべく、全てを投げうってシベリヤへいく囚人たちの移動についてきたのだった。最終の直前で特赦が出て、マースロワは自由の身になった。そして、マースロワ選らんだのは、シモンソン(ウラジーミル・イワノヴィッチ)であって、ネフリュードフ(ドミートリイ・イワノヴィッチ)ではなかった。
このような事情が、「カチュウシャとの彼の事業はおわりを告げた。彼は、彼女にとってもう不用の人間であった。」の中身である。 かくして、『復活』は最終章に入った。
<歩くのと考えるのとに疲れて、彼はランプの前の長いすに腰をおろし、さきほどポケットの中のものをとり出す拍子に、テーブルの上へ投げだしておいた、イギリス人が記念にといってくれた聖書を、機械的に開いてみた。《このなかにはいっさいの解決があるということだが》と彼は考えた。そして聖書を開いて、その開いたところを読みはじめた。マタイ伝の第十八章であった。>
マタイ伝の、1.から引用が続く。
<二十一、その時、ペテロ彼に来りて日いけるは、--と彼はその先を読むのだった。--主よ、幾次(いくたび)までわが兄弟のわれに罪を犯すを赦すべきか?七次(たび)までか?
二十二、イエス彼に日いけるは、爾(なんじ)に七次を何十倍せよ。・・・・・>
さらに、ネフリュードフは、聖書をさらに読み進める。
<そこでネフリュードフは、この思想の裏書きを、同じ福音書の中に見言いだしたいと思い、それを最初から読みはじめた。いつも彼を感動させる三上の説教を読んでいるうちに、彼はきょうはじめてその説教のなかに、抽象的な、美しい、だいぶ誇張された、一見、実行不可能な要求にみえる思想ではなく、きわめて単純明白な、実際的に実行しやすい戒律のあることを発見した。
・・・その戒律というのは、五か条であった。>
その五か条のなかで、第四の(マタイ伝・第五章三八-四二節)は、次のようだ。
<人は目をもって目に報いてはならないばかりではなく、一方のほおを打たれた場合には、他のほおをむけてやるようにしなけえればならなず、侮辱を許し、温和にこれをしのび、人から求められることはすべて、なんびとに茂それをこばんではならぬーーということのうちあった。>
たった一人になった、ネフリュードフは、聖書を読みながら、これからの生きていく先を探っていった。
<《「なんじらまず神の国のとその正義とを求めよ、さらば、他のものはことごとくなんじらに加えらるべい」といわれているのに、われわれはその他のmのばかりを求めている、をれが見いだせないのは当然である。》>
かくして、『復活』はつぎのような、ネフリュードフの心境の変化で終わっている。
<この夜からネフリュードフには、まったく新しい生活がはじまっった、それは、彼が新しい生活条件にはいったからというばかりでなく、そのとき以来彼におこったいっさいのことが、彼にとって以前とはぜんぜんちがった意義をもつしょうになったからであった。
彼の生活のこの新しい時期がどうんあふうな結末を告げるか、それは未来が示すであろう。>--おわりーー(1899年12月17日モスクワにて)