歌壇は辛い世相の歌が多い。それに比べると俳句の方がたんたんと人生を切り取っているようだ。
<夏草や荒れ放題に麦畑(福島県伊達市 佐藤茂)>⇒長谷川櫂選:「一席。ウクライナの穀倉地帯の惨状。これもまた「兵共が夢の跡」と選者の長谷川さんが評した。私にはウクライナを詠んだとは思えなかった。最近はごく近隣にも後継者がいなくて放置された元畑が沢山ある。
<夏空や青のピカソと黄のゴッホ(本巣市 清水宏日安)>⇒大串章選:こういう俳句もるんだね、感心した。「眩しい夏の大空、ピカソの「青の時代」を思い、ゴッホの「ひまわり」を思う。」と大串さんの選評だ。チョットこんなふうには詠めないね。
<紫陽花や息のきれいな子供たち(浜松市 野畑明子)>⇒高山れおな選:「息のきれいな」なんて表現は、息の汚れた爺さんには詠めないね。
<きりもみて黄泉路までゆけ竹落葉(東金市 山本寒苦)>⇒小林貴子選:「竹落葉」は夏の季語なんだという。竹の落ち葉は夏に落ちる。竹の花が咲くと竹は枯れる共いう。「黄泉路」とは、死後の世界へのみちだろうか?俳句はとても切り取りが深いと感じるね。
次に、歌壇も読んでみよう。
<若者のごとく果敢に臆病にマスクを脱いで往く大通り(仙台市 佐藤牧子)>⇒馬場あき子、佐佐木幸綱共選:二人の選者選んでいる。「若者のごとく果敢に」はわかるが、「臆病に」は、どういうことだろうか?
<人間に出会いて母熊引き返し小熊二頭は木に駆け上る(栃木県 川崎利夫)>⇒馬場あき子、佐佐木幸綱共選:日光辺りには熊も棲んでいるだろう。子連れの熊は危険との話をよく聞く。これって薄情で臆病な母熊ではないか? 本当かな?
<いつも山が見える暮らしは芳醇だ家から電車から会社から(富山市 松田梨子)>⇒高野公彦選:松田さん、富山で就職してしまったんだね、山が好きなんだ。
<戦場に兵士ふたりは結婚し明日はそれぞれ前線へ行く(諫早市 藤山増昭)>⇒永田和宏、佐佐木幸綱選:そういえば、新聞にそういう記事がでていたような気がする。
<絞り出す声もうつろに風に消える「息子は英雄」ウクライナの母(横浜市 森秀人)>⇒永田和宏選:
今週のお気に入りは、下記にする。
<菜園を始めてからは目と鼻の先に地球が息をしている(熊本市 柳田孝裕)>⇒永田和宏、高野公彦共選:
私も小さな菜園をやっているが、地球が息してるという発想は浮かばないなあ。