TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

箱根小涌谷の金型に泊まる前にー遠藤周作『わたしが・棄てた・女』を読んだ

 新型コロナウイルス感染拡大第七波かもしれない。こんな中であるが、箱根の緑と紫陽花と山百合をみたかった。9時前に家をでて、はるひ野新百合ヶ丘ー小田原と乗り継いで箱根湯本から宮ノ下へ向かう予定であった。
 午前10時50分頃。事故が起きた。小田急線改札を入ったフローアから、箱根湯本方面へ向かう小田急線ホームに下るエスカレータに妻のY子が一人で乗った。エスカレータがホーム階に到着する直前に、かなりの大きなキャリートランクが転げ落ちてきて家内の右足脹脛に激突し、さらに一段下の別のご婦人の右足脹脛に当たったあと、下のホーム階に落下した。この事故のために、私たちの楽しいはずの宮ノ下からの渓谷散歩はできんくなってしまった。小田原駅ホームで、現場検証におよそ一時間を費やして、宮ノ下をやめて、最寄り駅の小湧谷に着いたのは午後12時48分であった。ここで、約二時間を駅の待合ベンチで過ごしていた。ここで、遠藤周作「わたしが・棄てた・女」の後半部分を読み終えた。
 以下、若干の読後感想を書いておきたい。

 学生時代に読んだ、吉本隆明の詩に、つぎのような詩がある。引用したい。

 

 ぼくが罪を忘れないうちに

 ぼくはかきとめておこう 世界が
 毒をのんで苦悶している季節に
 ぼくが犯した罪のことを ふつうよりも
 すこしやさしく きみが
 ぼくを避難できるような 言葉で

 ぼくは軒端に巣をつくろうとした
 ぼくの小鳥を傷つけた
 失愛におののいて 少女の
 婚礼の日の約束をすてた
 それから 少量の発作がきて
 世界はふかい海の底のようにみえた
 おお そこまでは馬鹿げた
 きのうの思い出だ

 それから 先が罪だ
 ぼくは ぼくの屈辱を
 同胞の屈辱にむすびつけた
 ぼくは ぼくの冷酷なこころに
 論理をあたえた 論理は
 ひとりでにうちからそとへ
 とびたつものだ

 無数のぼくの敵よ ぼくの過酷な
 論理にくみふせられないように
 きみの富を きみの
 名誉を きみの狡猾な
 子分と やさしい妻や娘を そうして
 きみの支配する秩序をまもるがいい
 きみの春のあひだに
 ぼくの春はかき消え
 ひょっとすると 植物のような
 疾病が ぼくにとどめを刺すかもしれない
 ぼくが罪を忘れないうちに ぼくの
 すべてのたたかいは おわるかもしれない

 *   *  

「わたしが・棄てた・女」を読むと。吉本のうえの詩を想い起す。この詩はなにを詠っているんだろうか。「僕が罪を忘れないうちに」の「罪」は女を棄てたことをいっているのだろうか? 思想詩人であった吉本はこの詩でどいう状況をかいているのだろうか? 僕にはいまでもわからないが、「ぼくは軒端に巣をつくろうとしたぼくの小鳥を傷つけた」という詩句は、わたしの棄てた少女のことなんだろう、と読める。 

 遠藤周作さんの「わたしが・棄てた・女」を読むと、忘れられない、そして忘れてはいけない、わたしの苦いが、それでも真に生きていた日々のことを思い起こすのである。