TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

「小散文詩 パリの憂鬱』(シャルル・ボードレール 荻原足穂訳)を最後まで読んで—詩人・大手拓次のこと

 荻原足穂さんが、ボードレールの「パリの憂鬱」を翻訳されたと知って、早速にアマゾンで購入した。訳者にによる「あとがき」と小倉康寛さんによる「ボードレールの言葉が開く時」を読んだだけで、強引に書評を書いて、2月7日にアマゾンの読者サイトに投稿したことは、既にブログでも紹介した。
 書評をかきおえてから、すこしづつであるが、『パリの憂鬱』を読み継いできた。やはり、ボードレールの原詩の感動は、私には理解不能で伝わってこなかった。訳者の荻原さんが、50編の散文詩の訳のあとに添えた「蛇足」なる小文を辿って来た。この「蛇足」は、荻原さんの生の言葉であるので興味深く辿ることができた。それを読むと、ボードレール散文詩は本当のところは、フランス語という言葉によってしか、その意味するところも、香りたつところも理解できないのではないか、と思った。小倉康寛さんが、冒頭に寄せた「ボードレールの言葉が開く時」で次のように書いていた。

 <では、こうなってくると、『パリの憂鬱』の読みどころは、ボードレール自身が記しているように、作品に込められたというパリの庶民の声だということになる。
 だが、それを引き出すことは容易ではない。普通の会話で書かれているわけではなく、名詞構文と自由間接話法で書かれているからである。仏語検定一級では、名詞構文を平常文に直すとどうなるのかが出題される。これより複雑なことができなければ未読出来ない。>

 このように難解なボードレールの原文を荻原さんは読み継いで、日本語にされたのだ・・・。あとがきでこうも書いている。
 <この翻訳書の特徴を訳者の立場から二点あげたい。まず原点の精細な熟読(20回以上を重ねる)に基づき、上述の諸家の翻訳とも対比しつつ及ぶ限りの適切な訳出を試みた。・・・・これが第一点。特徴の第二点としては、詩理解のための注や解説を〔蛇足〕という欄に記載したことである。>

 本書を読む圧巻は、やはり「蛇足」をよむことにあったといってもいいだろう。例えば、「原詩 22 たそがれ」の訳詩のあとの「蛇足」にはこう書かれている。
 <本詩集では様々な性格の人が、また奇矯な行動をなす人路傍の人が多く登場する。雲だけを愛する異邦人、キマイラをかついでどことも知れず歩きゆく男たち、ガラス屋に花瓶を投げつけて「美しい人生を!」と叫ぶような男、英雄的な死を見事に演じる役者をじっと見据える君主、所在なげな「31 適正」の中の第4の少年、ビストゥーリ嬢も?、ひたすら居場所の変更を求める男、本詩の中のような「夕暮れ」に情緒が揺らぐ者・・・。なにもかも「まとも」だと自分のことを思いたがる訳者の深奥にも潜む(潜みうる)こうした半ば狂気をも帯びた性格や行動を詩人は凝視し、シニカルにあるいは幾分の共感をもって描く。哀れで貧しいもの、社会から余計者扱いされる者など、不運な不幸な者に憐憫と同情を寄せる詩人の眼は、ヒューマンなものである。>

 とまれ、荻原訳『パリの憂鬱』をよむことはとりもなおさず荻原さんの『蛇足』を辿ることであった。その折、読みながら、私はわが郷里の高崎市出身の詩人・大手拓次のことを想い起した。ボードレールとほぼ同年47歳で、無名のまま去ったこの稀有なる詩人・大手拓次は、一時期は辞書を片手にボードレールを読み耽っていたとのことだ。もう一度、大手拓次を紐解いてみたい。