TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

北陸新幹線で富山へ向かったー波乱の幕開け

 大宮から新幹線て長野まで一時間て着いた。さらに40分くらいで富山に着く。かつて、富山へは夜行列車で行った。広い日本なんだと思う。
 上のように、念願の富山立山の旅の記録を書きはじめた。しかし、この日は波乱の幕開けだったのだ。記憶と記録のために経時的に記録しておきたい。

 出発の朝は生憎の雨であった。大宮までは1時間くらいで平時であれば到着する。余裕をもって、最寄りのはるひ野駅8時40分発にのる予定で、8時20分に家を出た。1分くらい歩いて、信号のまえで、肝腎の手持ち鞄を玄関に忘れたことに気づいた。急いでバックを取りに戻った。このバックは、40年くらい前にモスクワ、レニングラード旧ソ連)の旅に、27歳の時(ということは48年前か?)に買い求めた年代物だ。幸いにも、はるひ野駅で妻に追いついて、一緒に予定の8時40分発新百合ヶ丘行きにのることができた。ところが、乗った途端に、小田急線が人身事故のために後れを生じているとの放送があった。人身事故は、7時頃に小田急小田原線で発生していた。ということは、事前に運行状況を把握すれば、京王線を利用して新宿に向買うことも禍のうであった、と危機管理の不足も痛感した。電車はなかなか発車しない。通例なら7分で新百合ヶ丘につくのだが、新百合ヶ丘駅のホームの渋滞とのことで、ついたのは8時55分頃であった。ダイヤの乱れで、8時57分発の急行新宿行きは来ない。ホームで待つこと数分で、8時59分頃に快速急行新宿行きがきたので、混んでいたが乗り込むことができた。新宿には、9時50分頃に着いた南口から、大宮に向かう、埼京線もすいくは湘南新宿ラインのホーム(4~6)番に移動した。スマホで調べると、10時1分発の湘南新宿ラインでは、大宮に着くのが10時43分に着くと判明した。10時47分発の、北陸新幹線かがやき509号の出発は10時47分である。4分の乗換では、間に合わないかもしれない。4番線で待機していると、埼京線快速の川越行きが来た。ともあれ、これにのり赤羽でJR宇都宮行きに乗り換えると早く大宮につくらしい。赤羽に10時12分について、4番線から8番線に移動して、10時16分発の宇都宮線に乗り換えると、なんと10時32分に大宮に着くことができた。ここで、北陸新幹線10時47分発に15分前に大宮に着くことができた。咄嗟の判断でで行動したのだが、これが最適な判断であった。この間に、同行者のNさんにもメールで連絡した。Nさんんも、同じく宇都宮行きに新宿か 乗れたらしい。偶然の幸運より、同行の三名が無事に10字7分発の北陸新幹線かがやき509号にのることができた。因みに、今回は、えきねっとに加入して、30%割引のチケットレスで座席指定を予約した。6 号車の[2番C,D,E]

であった。
 富山駅には遅れることなく、12字1分についた。30年くらい前に、戸山に取材で出張した折には、東海道新幹線舞鶴で乗り換えていくか、あるいは上越新幹線で長岡周りで北陸線に乗り換えて行った。どちらも5時間近くかかったと記憶している。北陸新幹線の速さは驚くばかりである。大宮から2時間なので、東京駅からは2時間40分くらいだろう。
JR富山駅から富山地方鉄道に乗り換える前に、駅ビルの方舟という食堂で昼食をとる。海鮮丼と氷見蕎麦のセットが、1,760えんであった。美味であった。14時1分に電鉄富山駅発で、15時3分に立山駅についた。立山駅で2階に登れば、すぐ目の前がロータリーであったのに、地下のままで前方にでた。私のみが、改札からでた駅フロアーに戻り、翌日のアルペンルートのWEB券売機を探した。すると、3機のWEB発券機があった。再び、1階に戻り、三人で前方に駅舎を進み、和みの宿千寿荘を探した。なんと左方向をみると、そこが駅前ロータリーで千寿荘は目の前にあった。改札フロアーから、直接左側に登れば、そこが千寿荘の目の前であった。15時30分には、チェックイン出来た。少し休んでから、千寿荘の周囲と駅前を散歩した。隣に「富山県立山カルデラ砂防博物館」があったので、見学した。博物館は、黒部の開発の歴史と、実際を模型によって体験ができる形になっていった。見学のあとで、千寿荘に戻って、16次0分~入浴した。温泉は乳白色でヌルぬるするお湯であった。夕食は典型的な懐石料理でざった。ビール中ジョッキ(680円)と日本酒(立山、冷酒300㏄)を飲んだ。疲れており、早めの21には床についた。
 千寿荘の宿泊料は、一人9,500円+入湯税150円だった。現地決済で、現金で支払った。」