TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

ゴルバチョフさんが逝去—旧ソ連最後の最高指導者

 ミハイル・ゴルバチョフソ連大統領が8月30日に亡くなった。新聞に訃報が載っていた。ゴルバチョフさんというと、1985年頃にソ連の大統領だった。その頃、エイズが医学・医療界の大問題だった。その頃、ゴルバチョフさんは日本にきたかもしれない。ソ連時代の改革者で、「ペレストロイカ」「グラースノスチ」を進めた人だった。ソ連の時代の最後の最高指導者だった、くらいの知識しかない。そこで、新聞記事から、ゴルバチョフさんのことを纏めておきたい(朝日新聞朝刊の記事なので、それはそれでよしとして)。

 ロシアのタス通信などによると、モスクワ中央病院の話として、8月30に逝去した。新型コロナウイルス流行の初期から入院していたとのことだ。遺言でモスクワにある妻ライサさんの横に埋葬されるとのことだ。

 ゴルバチョフ氏は、1985年、ソ連共産党書記長に就任。行き詰まった社会主義体制について、「ペレストトロイカ(立て直し)」の名で改革に着手し、「新思考外交」で西側諸国との緊張緩和、核軍縮を目指した。1985年11月、ジュネーブで開かれたレーガン米国大統領との最初の首脳会談で、「核戦争に勝者はない」と宣言。米国との間で1987年に核兵器削減条約の中距離核戦力(INF)全廃条約、1991年には戦略兵器削減条約(START)に署名した。アフガニスタンからのソ連軍撤退も実現した。さらに、1989年12月、米国ブッシュ大統領(父)と地中海マルタで会談し、「東西冷戦の終結」を宣言。翌、1990年にはノーベル平和賞を受賞した。1986年4月、ウクライナチェルノブイリで起きた原発事故を契機に、「グラスノスチ(情報公開)」、言論の自由化にも力を入れた。
 対日関係では、1991年4月の訪日で、海部俊樹首相との会談で日ソ共同声明を発表。歯舞、色丹、国後、択捉4島をめぐる領土問題が、両国間に存在することを初めて明文化した。ただ、世界中に「ゴルビー・ブーム」を巻き起こした一方で、国内では改革が思うように進まなかった。共産党による一党独裁の放棄や大統領制の導入などの改革を進めたが、体制の弱体化は止まらなかった。1991年8月に起きた党保守派のクーデターでゴルバチョフの権威失墜は決定的となり、ロシアの初代大統領となったボリス・エリツィン氏に政治の主導権が移っていた。ソ連の構成国も次々と独立を宣言して、ゴルバチョフ氏は、1991年12月25日に大統領退任に追い込まれ、ソ連が崩壊した。

(続)