TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

シーボルトってドイツのヴュルツブルグの生まれなんだって

 10年くらい前に初めてドイツに旅をした。フランクフルトで世界旅行中の三女夫婦と落ちあい、フランクフルト、ハイデルベルグミュンヘンとレンタカーでの旅を楽しんだ。ちょうど今頃の時期だったので、ミュンヘンでオクトーバーフェスティバルに参加してビールを堪能したのが昨日のように覚える。その折に、ミュンヘンで娘たちと別れて、ローテンブルグからフランクフルトに戻る際、最後に一泊したのがヴュルツブルグだった。ヴュルツブルグは、城塞のに囲まれた旧市街をもった小さなドイツの地方といった風情であった。このヴュルツブルグに、あの有名なシーボルトが生まれたとは不覚にも知らなかった。知っていれば、観光の仕方ももっと深まったのにと残念に思う。興
 さて、今回は、「東大病院だより」という東大病院発行のミニコミ雑誌に、加我君孝さん(耳鼻科医)が「医学歴史ミュージアム紹介」という連載を行っおり、その47回目に「ドイツ・ウルツブルグ 医師シーボルトシーボルト博物館」というテーマで書いておられたのを読んだ。興味深く読んだので概要を少しまとめておきたい。それにしても、シーボルトはドイツ人で、オランダの軍医として長崎にきたのが、27歳であり日本人妻の楠本滝との間に、娘楠本イネ(後に医師となる)を残して32歳で、例のシーボルト事件で日本を追放になってしまった。シーボルトは30年後、62歳にして二度目の来日を果たしている。その折には、楠本滝やイネに会っているのだろうか?もしかしたら、シーボルトの伝記小説に書いてあるのかもしれない。吉村昭さんは書いていないかな?

シーボルトの生涯:誕生から江戸参府まで(1796~1826)
1796 ヴュルツブルグに誕生。父親のクリストフはヴュルツブルグ大学医学部助産学教   授。母親はポロニア。
1798 父親の死去。(シーボルト2歳)
1810-1815 ヴュルツブルグのギムナジウム(中学校?)
1815 ヴュルツブルグ大学哲学科に入学
1816 ヴュルツブルグ大学医学部に入学。必須科目の化学、植物学、薬学の講義をとる。他民族の文化に興味を抱く。
1817 解剖学と哲学の教授の出リンガーのもとで、解剖学、植物学、物理学を学ぶ。
1820 外科学、分娩術で医学の学位を得る。
1822 オランダの東インド会社の軍医としてパタビア(ジャカルタ)と日本に行く申請をする。
1823(27歳) 6月27日、ジャカルタを出港。長崎出島の商館医師に任命される。
       8月11日、長崎出島に上陸。日本の医師や研究者のために自然科学と医学について講義する。鳴滝に母屋2つと別棟のついた土地を購入。講義をしながら治療を行う。植物学と動物学の研究旅行をする。日本人の女性・楠本滝(おタキ)と結婚する。
1824(28歳) 出島の一角に植物園を作る。弟子たちにシーボルトが興味を持った分野をテーマにオランダ語のレポートを提出させる。日本人の服装や宗教、歴史、地理、法律、風俗、習慣に関する知識を集めた。
1825(29歳) 植物園に1000種類以上の花や木を植える。
1826(30歳) 江戸城へ参府旅行。37日間の滞在中、長崎屋と江戸城で多くの日本の学者や文化人と知り合う。幕府の天文学者高橋作左衛門景保と親しくなり日本地図を入手する。

(続)