TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

「我が山歩記」と「もの好きオペラガイド」―大友英一さんが書いた本のこと

 大友英一さんは山歩きの達人だ。そのことを、雑誌「脳と神経」の編集会議の合間に伺った。乾徳山に宮様をお連れして登られた話「我が山歩記」と「もの好きオペラガイド」という本である。一冊目は、大友さんの山歩きの記録である。二冊目は、文字通り、大友さんの「オペラ」についの蘊蓄と鑑賞本である。

(1)「我が山歩記」
 大友さんが上った102座の山が、北海道の利尻岳から九州(屋久島)の宮之浦岳までが紹介されている。「はじめに」にこう書いてあった。
 「私の本格的な登山は、入局2年目の3月から5月にかけて、信州の安曇野病院に派遣されたことがきっかけであった。レンゲの咲き乱れる安曇野から仰ぎ見る、雪を戴いた北アルプスの美しさに、心の隅々まで洗い清められたあの感動が、今も私の中に生き続けている。」
 大友さんは、秋田出身だから、もっと若い高校生の頃から山に行っていたのかと思っていたら、意外と遅いスタートなので驚いた。それにしてもよく上っている。
 「子供たちも成人した今、私の山行きは、いつも一人である。家族は心配するが、多忙なスケジュールの合間を縫って登るので、結局、マイペースの独り歩きということになってしまう。・・・1989年7月、北海道の山々を最後に、深田久弥が著した日本百名山を全部踏破することができた。」
 この本に大友さんが書かれている山々のうちで、私の登ったことがあるのは「17座」に過ぎない。「登ってその良さのわかる山」として、屋久島の宮之浦岳を上げていた。私も家内と登ったことがあるのでうれしい。さらに、もう一つ、乾徳山は冒頭に記したように、大友さんの話をきいてから是非登ってみたいと思っていたが、2015年に登ることができた。乾徳山のところで、大友さんはこう書いていた。
 「県徳山は、独立峰であるから、360度の展望を楽しむことができる。・・・・約20数年前にの東宮侍医時代、御学友一人と登られた浩宮様(現皇太子)のお供をしたのが最初である。麓の旅館に泊まった際、夕食の膳に蜂の子が出された。子供の頃、ニワトリが大好物のアシナガバチの巣を見つけては、中の子も一緒に食べさせたものだった。蛆そっくりのこんなもの、食べられたものではない。海のない信州では、昔から、重要な蛋白源として珍重されて来ていることは知ってはいたが。ところが、殿下は大好物とのこと、早速、私の分も、胃の腑に納めて頂いた。その後、信州、甲州の山のお供の際、件のものがでると、直ちに、進呈するのが常であった。」
 浩宮様は、現令和天皇である。蜂の子がすきな令和天皇は身近に感じられる。乾徳山は私の大好きな山であるが、二度目に登ったときには、途中で鹿にであった。大友さんが書いておられるように、「岩陵、草原、樹林帯」の三つが揃っているけわしい山だ。 
 上記の本は、大友さんが『ドクターサロン』ちう雑誌(多分、製薬会社の広報誌)に8年余にわたって連載した山の随筆をまとめたものだ。

 (2)「もの好きオペラガイド」

 秋田弁の大友さんに最初に接すると、ええ、大友さんがオペラって思うかもしれない。「まえがき」の冒頭にこうかいてあった。
 「戦前戦中の青少年時代を東北の田舎で育ち、幾枚かのSPを通してしか、洋楽に触れる機会がなかった私であるが、それでもクラッシック音楽への憧憬を持ち続けていた。大学へ入ってからも、時間的にも経済的にも余裕など持ち合わせなかった私を一足とびにオペラの虜にしたのは、1957~1959年にかけての、米国メリーランド大学の留学生活であった。」
 なるほど、そういうことか。大友さんの場合、山上りのキッカケも、安曇野の病院に行ったこと、オペラも米国での留学生活ということだが、その、偶然を必然に変えてしまう柔軟性を持っているのだと思う、「ある日、ニューヨークの街を歩いていた私の目を捉えたのが、メトロポリタン歌劇場の「アイーダ」の看板である。」
 かくして、オペラの虜から、やがてオペラ通になっていた軌跡が描かれている。この本は、雑誌「老化と疾患」、おぺらについて連載したエッセいを一冊にまとめたものである。「オペラとは」からはじまり、「オペラの予備知識」「オペラの楽しみ方」と続記、ヴェルディからオッフェンバックグルックスメタナ、等々、プッチーニまで、有名なオペラについては網羅されているようだ。 

 秋田弁丸出しのままの大友さんとオペラは不釣り合いにも思うのだが、どうしてオペラの蘊蓄もただものではない。それにしても、医師には特に神経内科の医師には多彩な人が多いと感じる。本日は、大友さんの医学関係以外の2冊の本に触れた。令和天皇になった今、大友さんがご健勝でおられるのが嬉しい。