TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

八王子」「絹の道」を」歩いたこと蚕の「ずぅ」上げのことについて想い出したこと

 10月の三歩会」は、八王子のみなみ野駅から「絹の道」をあるいて絹の道資料館へあるいた。集合は、JR横浜線のみなみの駅に午前十時だった。8時半には家をでて、はるひ野駅小田急永山京王永山⇒京王橋本、JR橋本駅⇒JRみなみ野駅へと行った。順調に進んで行って、9時15分分くらいには着いてしまった。参加の皆さんも早めについて、9時45分には歩き出した。八王子みなみ野駅は、今から25年くらい前に、近辺の大規模開発に伴ってできた新しい駅だ。Yさんの友人のさんのご主人が、開発に関与したと聞いたので記憶に残っていた。小田急町田駅から、横浜線に乗り換えて八王子方面に行くときにみると駅周辺も開発途上でまんも建物はなかった。暫くして京王線が橋本まで通じて、橋本でもJR横浜線に乗り換えることができるようになった。
 今回、初めてみなみの駅に降りた。駅周辺は大規模開発が進んできていて、駅前広場もなにもかも新しいものばかりである。
■絹の道と5つの三角点を歩く■
 今回の、散策コースは、標題のタイトルの趣旨のものだった。東側の階段を下りると、兵衛川が南北に流れ、平行して走る横浜線とに挟まれて新築住宅が甍を並べていて新興住宅地の様相を呈している。荒田橋、下平橋、中村橋の交差点を渡ると、左側の高い擁壁に熊野神社への矢印がある。このへんで、Yさんの思惑を無視して、熊野神社に立ち寄らずに、私が花王八王子センター方向へ広い道の歩道を歩いて行ってしまった。そこから、東京工科大の横を御殿峠に抜けた。暫く行くと、国道16号に突き当る角に、結婚式場の八王子日本廓があった。ここで、道を間違えた。国道16号は、新しいバイパスと旧国道16号とが並んで走っていたのだった。目指していた「絹の道」の入口は、大塚公園という公園の端にあった。ところが、私たちは旧16号の歩道を歩いていたので、東京工科大学の表門の方に出ていた。結局、少し引き換えして、「絹の道資料館、1500メートル」という道路標示に従って道路を左折して歩いていった。いつの間にか、16号バイパスをトンネルで抜けて、「絹の道資料館」に至る農道を進んでいたのだった。この近辺は、「鑓水」という地名である。「鑓水」とは、竹の節を抜いたものを傾斜面に突き刺すと、水が湧き出てくることから、「鑓水」の言葉が出来たと説明書きにあった。およそ、2時間をかかって11時45分頃には、「絹の道資料館」に到着した。
絹の道資料館■

所在地:東京都八王子市鑓水989-2

絹の道とは:「絹の道」は、横浜が開港し、鉄道が発達する明治の中頃まで輸出用の生糸が多数運ばれたルートの一つなんだという。現在、御殿橋のたもとから、「絹の道碑」の前まで、1.5kmが「絹の道」として八王子市の史跡に指定されている。このうち、特に昔の面影を残す未舗装部分1キロほどが、文化庁指定「歴史の道百選」にも選ばれているんだという。あるいてみると、鬱蒼とした樹木が覆いかぶさり、うす暗い中に西日が射してよい雰囲気であった。

絹の道資料館: 昭和60年に、歴史的な雰囲気が損なわれないように、「絹の道」の保全と環境整備を目的とした基本構想が策定された。旧道了堂のあった大塚山を公園として整備し、市指定史跡「絹の道」の中心的な施設として、かつての鑓水の生糸商人、山木下要衛門家敷跡に休憩所を兼ねた資料館を建設することになった。この計画に元つき、昭和62年から、発掘調査による遺構の確認や、石垣の復元などを経て、生糸商人屋敷の景観をイメージした木造の門や、入母屋屋根を持つ絹の道資料館が平成2年3月に完成た。

 30~40ほど、絹の道資料館を見学した。資料館には、養蚕の説明、実際の繭がまぶしにできているのが展示してあったりした。機織り機械も四台ほどあり、ボランティアの女性たちが機織りの実演をしていた。
 私の実家は、実は養蚕を生業として時期があった。小学校低学年から中学まで、養蚕の仕事をい手伝った経験がある。普段は座敷としていた住居も、養蚕の時期になると、蚕小屋にとって代わるという様相だった。夜、蚕が鍬を食む音が聞こえるほどだった。蚕は、年に三回、春蚕、夏蚕,、秋蚕(はるご、なつご、あきご)と呼称していた。蚕は、種から育てて四週間くらいで、成虫になって、さなぎになる前に繭つくってその中にはいる。成虫になると、蚕はもう桑(餌)を食べずに、くびすじを上に一斉に挙げてくる。とくに、首のあたりは透き通てきて絹をだす準備を始める。こうなったら、急いで蚕が繭をつくるために準備した藁性の枠状のもの(まぶし)に移さなければならない。この作業を「ずう上げ」と言っていた。このことを思いだして、昨日、FBに次のように書いた。

「10月の三歩会は八王子鑓水の絹の道資料館までみなみの駅から歩いた!まぶしと繭を見たら幼少期の桑摘みと「ずう上げ」を思い出しました!蛹になる前に絹を吐く準備に達した蚕をまぶしに移す作業は時間に追われる養蚕の仕上げ作業で一家総出の仕事でした!「ずう」って方言だろうか?」

 これに対して、次のコメントをいただいた。
 「ずぅ上げ」という言葉を聞いた事がありません。やんごとなき名家の伝承言葉なのでは?」

 「かすかな」記憶なので?お蚕さんていうくらいだから尊称かも?」と応じた。ところがである。私の記憶は正しいのだった。つぎのような、コメントを見つけた。
 「ずぅ」は、お蚕さんのさいごの姿のことだ。「頭(ずぅ」を上げて、もう繭をつくりますよという、頭と首をふる状態をいうのではないかと思う。「ずぅ上げとは、この状態のお蚕さんを、まぶしに載せて(上げて)あげるという作業だった。

 

「ずぅ(繭になる直前のお蚕)はこんな感じ」(写真も載っていた)

 桑を食べるのをやめ、糸を吐き始めたお蚕に光をあててみました。この透けてみえているところに絹糸腺(けんしせん)というのがあって糸のもとになります。
 絹糸腺そのものは生まれた時からあるはずですが、四度目の脱皮のあとで急速に発達するようです。最終的には体のかなりの部分が絹糸腺になってしまうようです。
 そしえ、もう餌はいりません。繭をつくります、という状態になると、体の皮まで透けてきます。その状態を祖母は、「ずぅ」と呼んでいました。光を当てなくても目でみてわかるくらい透けてきますよ。」