TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

『長岡郡大島村―地検帳から江戸時代へ』(松村紀著)を読んでいる

 1っか月前(2022年9月25日)に、藤沢市鵠沼に在住の城田俊先生を訪れたおりに二冊の本をおかりしてきた。

長岡郡大島村―地検帳から江戸時代へ』(1)

『「長岡郡大島村」の訂正と補遺ー五台山島北麓 明智一族の開いた村』(2)

上の二冊の本は、いずれも私家版で非売品の本である。中身は、松村紀さんが、自らの出自が明智光秀の残党(末裔)であることを、母親からの伝承と育ってきた村の歴史と実家の墓地を含めて検証しながら掘り起こしながらまとめたものである。二つの本はどちらも、上製のハードカバーで渋い蓬色の布表紙で製本され、家紋が金色で押されている。この本を、新型コロナウイルスが始まる前年の2018年ころから1年余りで作成している。(1)を最初に出版して、関係者に配布した。その直後から、(1)の誤りを訂正しながら補遺の形で書き継いだのが(2)である。一月を要して、(1)を読んで、いま(2)にとりかかっている。重い中身の本である。軽い感想はかけないし書きたくない。
 先祖とか祖先とかは私の場合はあまり考えてこなかった。少しだけ書いておきたい。

 私は齋藤という姓で生まれ結婚する26歳の2月までは齋藤であった。斎藤家では、4人兄弟(兄ひとり、姉二人)の末弟であった。姓は齋藤であるが、父の父、つまり私の祖父は鈴木家から斎藤家に婿養子に入っていた。私の父が自らの父親のことをこういっていた。「五人も子どものいる家に来るんだから、どうせ碌なもんではないんだな」。つまり、こういうことだ。私の祖母は、吉田家から斎藤家に嫁に来て五人(らしい)の子どもを産み育てきたが、斎藤家の主人(夫)が亡くなってしまった。斎藤の家族を支えていくため後夫を迎えた。その間に三人の子どもが生まれた。その長男が私の父親で、妹が近くの別の町に嫁に行っていた。弟は20歳くらいで風邪を拗らせて急逝してしまっていた。わたしの父親は、後夫の長男であったので、苦労して実の母親と実の父親を支えて苦労してきたようだ。父親は後夫の長男であるが、母親には前夫との間に長男と娘が4人いた。前夫の長男が、当然ながら斎藤家を継いだ。そこで、母親の次男である父は斎藤家から分家となった。分家に分け与えられた田畑はたぶん少なかったと思う。そのため、私は貧しい小作農家に育ったことになる。ただ、農地解放というものが当時あったので、小作していた農地が払い下げられて少し田畑が増えていたのかもしれない。

 一方、斎藤の本家は、聞くところによると、齋藤別当實盛を祖先にもつ由緒ある家系だという。実際、群馬に帰省した折に本家の墓地を訪れたところ、古びた石碑に何代の名前が刻まれて驚いたことがる。このようなことであるから、私は斎藤家の傍系であり、祖母は吉田家、祖父は鈴木家から斎藤家に入ったのであり、元々は齋藤ではないのだ。
 26歳の折に、富永家の長女であるY子と結婚して婿養子としてなり、26歳から富永としてこれまで49年を生きてきた。26年を生きた斎藤より49年を生きた富永のほうが長いのである。もう三十年前になくなった養父は、富永家は長崎県の大村の由緒ある家柄だであることを、資料をもとに言っていた。実際、大村の歴史書に養父の祖父・富永快左衛門が、内紛で暗殺されたと書いてあること、を記していた。家系図も作成していた。これを完成することは私の責務かもしれない。

 本日は、『長岡郡大島村―地検帳から江戸時代へ』に触発されて、自らの出自にも少し触れた。記憶と記録のため。